ルームナンバー307 - 4/11

 
 第三幕

 

 鞄からカードキーを取り出していると、しっかりと巻いていたマフラーが緩んでいる事に気が付いた。新品の物は少し滑りやすいのかもしれない、と要らぬ考察をしつつも、帰宅を目前にした気の緩みと連動しているようにも思える。特に直すでもなく、そのまま引っ張り下げて扉を開けた。リビングには明かりが点いている。ブーツを脱ぎながら、綺麗に並べられた革靴を視認し、先に戻っているのがジェイドである事に見当を付けた。
「戻りましたよ」
 一応、一声は掛けておく。玄関が開く音は、この狭い空間ではどこに居ようと聴こえるものだから、ほとんど意味はない。形式的な物に過ぎないが、フロイドも含めて、全員が怠らないようにしている。暗黙の了解というやつだ。
 マフラーを外して鞄に引っ掛け、コートを脱ぎ始めた所で違和感を抱く。ジェイドであれば、基本的に手が離せない状況でさえ、いつも迎えに出てくる。しかし、今日は姿を現さない。それどころか、返事もなければ物音もしない。明かりが点いていて、靴もあるのに、帰っていない筈はない。
「……ジェイド? どこにいるんです?」
 嫌な予感がした。以前にも何度か同じ状況に遭遇した事がある。一度目は、リビングの真ん中でテラリウムに熱中していた。二度目は、そのまま机で眠っていた。そして三度目は。
 早足になりながら、恐る恐るリビングへと繋がる扉を開け放った。そして一気に血の気が引いた。
「ジェイド!」
 机の周辺に人工砂が広がっていて、巻貝や海藻を模した飾りが散乱している。その中に、ジェイドが倒れ伏していた。嫌な想像が悉く当たっている事を抱き上げてすぐに悟る。触れた肩は冷たく、頬は青ざめている。僕の声に反応して薄く開いた瞼の奥からは、焦点の合いにくい眼が覗いた。
「ああ……アズール、お帰りなさい」
「何を呑気な! お前、また”やった”な!?」
「お恥ずかしながら……」
 砂を適当に払って、力の抜けて重いジェイドの身体を抱え起こす。ソファに寄りかからせて、なるべく動かさないように近くのクッションを引き寄せてそこに座らせる。以前にも見たこの状態は、良く知っている。初めて見たあの日、生きた心地のしない中で必死に調べて辿り着いたこれの答えは、”低血糖”であった。
「はぁ~……手軽に作れる物を作ります。とりあえず、クッキーでも食べて待ってなさい」
「はい。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」
「本当にな……!」
 いつでも隙の無い笑顔と態度でガワだけは完璧なこの男は、自らの没頭癖という性質によって偶に死にかける事がある。それを見つけるのは大抵僕で、フロイドが発見したとしても僕が呼ばれるのはいつもの事だった。お陰で食事を抜いた際に発生し得る体調不良には詳しくなったし、対処法は完璧だった。
 お茶請けとして常備している菓子箱をジェイドの手元に置いて、キッチンへ入る。手早く作れて、手軽に食べられて、尚且つ栄養価の高い物が良い。冷蔵庫から食材を取り出すと同時に考え付いて行くレシピに、どれだけ染められているのかと自らに呆れてしまった。

「ほら」
 悠長にクッキーを頬張る目の前に、湯気の立つ大皿を差し出した。普段より幾分も反応の鈍い目が数度瞬いて、それから微笑みを形成する。
「ありがとうございます……今回はムニエルですか。とても美味しそうですね」
「当然でしょう、僕が作ったんですから。さっさと食べてしまいなさい」
「はい。頂きます」
 丁寧に菓子袋を畳んで机に戻して、ゆったりと手を合わせてカトラリーを取った。スプーンを握ったまま、少しの間思案する素振りをし、それからやっと白身を掬った。
 悠長に口元へ運ばれていく魚の切れ端を眺め、溜息をつく。弱肉強食が常の深海に生まれ、上に立っていた癖をして、この様は何だ。どうやって今まで生きて来られたんだ。フロイドに対しても、よく似た様な事を思う。きっと一人ずつでは、上手く生き残ることは難しかっただろうといつも想像した。
 呆れ混じりの目をじっと向けていると、三分の一ほど食べて少し元気の戻った二色の瞳がちらとこちらを見返してきた。何か言いたげな目線に気付いて、ふんと鼻を鳴らす。
「本当にお前は僕がいないと駄目ですね」
 様々な感情の入り混じった罵詈雑言を、飲み込んでいつもの軽口に昇華する。しかし咀嚼する顎の動作が鈍くなったのを見てから、しまったと思った。そんなつもりは少しもないのに、後から脳内で繰り返すと”意図”を含んだ言葉に聞こえた。じわじわ顔が熱くなる。咄嗟に弁明しようにも、今更だし余計妙に感じられる。八方塞がりで何も言えずに黙っていると、ごくんと魚を飲み干した彼の口が綺麗な弧を描いた。
「いつもお世話になってしまっているのは申し訳なく思っていますよ。でも貴方こそ、一人でいると倒れてしまうのでは?」
「はい? 僕がですか?」
「だって、忙しい日には僕達が言うまで眠らないでしょう」
 スプーンと皿が触れて金属音が静かに響く。彼の言葉を否定する事は出来なかった。口元を歪めて目を逸らすと、控えめながらも勝ち誇った笑声が続く。
「『僕が居ないと駄目』……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ、アズール」
 にこり、と聞こえてきそうな笑顔が責め立てる。どうも気に障っただけだったらしい。憂慮した”意図”なんてものは一ミリも伝わっていない。また息を零したくなるのを我慢して、ずれた眼鏡を直した。
 ふと、視線を戻して目が合った。口喧嘩で勝ったと思っているからだろうが、機嫌よく微笑んでいる。青ざめていた頬もすっかり朱色に戻っている。その穏やかな様に心臓が微かに跳ねた。膝に置いた拳をぎゅうと握る。
 ――もしかして、今、チャンスではないのか。
「…………」
 フロイドの嬉しそうな顔が思い浮かんで、それに押されるように口を開いた。しかし、言葉が続かない。ただ空気を飲んだだけだ。情けなくて唇を噛む。尚も言葉を探して唇をすり合わせていると、ムニエルを食べ終えた彼が怪訝な顔で僕を見ていた。
「怒りました?」
「……いえ」
「そうですか」
 ジェイドはただ首を傾げて、空になった皿を持って、まごつく僕の隣を通り抜けていった。

 

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