第四幕
腕に巻かれた革のベルトに触れて、溜息をつく。文字盤を指し示す針は、随分と見慣れない時間を表していた。空は白んでいる。冷え切って赤くなった指先で、ポケットに入れたままだったカードを摘まみ出す。扉の前に立ったところで、足元から明かりが漏れているのに気が付いてしまった。
フロイドだけならいざ知らず、アズールが居る限り、明かりを切り忘れて眠るなんて愚は犯さない。重苦しい気持ちになって、カードを差す動きが鈍くなった。無情にも翳しただけで鍵がかちりと音を立てて開いてしまった。
「…………」
ドアノブに手を置いて、息を殺す。微かに、扉を隔てたすぐのところへ気配を感じた。開いた後に見えるであろう姿を想像し、目を閉じる。しかし、いつまでも外へ立っているのは季節柄、寒すぎて無理だった。吐いた息は白くなる。覚悟を決め、ドアノブを回した。
「お帰りなさい、ジェイド」
「……はい。ただいま戻りました」
扉が視界から消えてすぐ、仁王立ちするアズールと目が合った。動揺を悟られないよう微笑めば、清々しい程の笑顔が返ってきた。
「随分と遅かったですね。何か、面白いものでもありましたか?」
「ええ、今朝から上っていた山で珍しい植生を発見しまして。観察していたら、いつの間にか朝になってしまいました」
「それはそれは! さぞかし素晴らしい発見をしたんでしょうね、ええ、僕に連絡をする事すら忘れてしまっても仕方がありません!」
両手を広げてにこやかに告げるアズールの目は死んでいる。合わせているのが気まずくなって視線をずらす。リビングの方は明かりが消えていて、廊下にだけ煌煌と点灯していた。フロイドはおそらく爆睡しているのだろう。物音が全くしない。
「……聞いているんですか? ジェイド」
そうして意識を逸らしていると、底冷えするような声がしんとした廊下に低く響いた。心臓がひやりとして、もう少しで飛び出そうになった声を飲み込んだ。恐らく開いた瞳孔までは隠し切れないと思い目を逸らしたままでいたら、苛立たしげに裸足の爪先が床を叩いた。
「おい」
「すみません。つい、夢中になってしまって」
「――反省しろって言ってるんだよ!」
今度こそ肩が跳ねるのを止められなかった。ここまで直截的に怒られるのは随分と久しくて、身構えられなかったせいだ。後退りたくなるのだけはどうにか堪えて、そうっと視線を彼に向ける。
「以前にも同じ事がありましたよね!? その時、お前は何て言いましたっけ? 『もうしない』と、そう言いませんでしたか!?」
「……気を付けてはいました。でも」
「でも、じゃない! 先に、言う事があるだろうが!」
ダン、と彼の足が床を蹴った。下階に響きそうで、しかし咎められる雰囲気ではない。
「大変申し訳ございませんでした。今後はこのような事のないよう……」
「ジェイド!!」
「…………」
形式に沿って下げた頭に、怒号が飛ぶ。彼の言いたい事は分かるが、こちらも少し苛ついた。僕の言い分も聞き入れるべきではないのか。夢中になって仕損じる事くらい、アズールにだってある。フロイドが同じ事をやった時だって、ここまでは怒らなかった。そのまま彼の言う通りに謝罪するのが癪になり顔を上げた。
しかし、その先に続けたかった仕返しの言葉は立ち消える。その表情に浮かんでいるのは怒りだけではなかった。歯噛みする口元も目尻も、苦しげに下がっている。そして、彼の怒りの意味を、やっと正しく解せた。
「ご心配をおかけして……申し訳ありませんでした、アズール」
言葉を選んで、ゆっくり、なるべく心底から伝えるべく告げる。すると、怒りに似た感情が渦巻いていたアズールの目が、きょとんと丸くなった。そして、その頬が寒気に晒されたかのように真っ赤に染まった。
「心配なんかしていません! 勝手に消えられては困ると言っているんですよ!」
「はい。すみませんでした。心配性な貴方のために、今後はなるべく早めにご連絡いたします」
「ええ、ええ、そうですね。ぜひそうして下さい!」
勢いよく顔を背け、そのまま背中を向けられた。思わず笑うと、唸るような声がして、更に笑ってしまう。
「ああもう! 僕は寝ますからね!」
癖毛を掻き回してボサボサになっていくのを見ながら、靴を脱いで鞄を下ろす。外套を腕に掛けた所で、寝室の扉に触れる背中に「アズール」と声を掛けた。怒りに上がっている肩のまま、ぴたりと彼は動きを止める。
「言い訳をするつもりはございませんが、今後も今日の様な事は起こると思います。もちろん反省はしています。しかし、集中して時間を忘れてしまうのは、意識して直せる事ではないのです」
「分かってますよ、そんなこと。お前は昔からそうです。それこそ、出会った頃から変わらない」
今度はこちらが目を丸くする番だった。飽きずに何度も怒るものだから、理解されていないのかと思っていた。俯いたままで、アズールは視線だけ僕に向けた。
「それでも……不安にはなるんですよ。前は帰ってきても、次はないかもしれない。お前達は気まぐれだから」
その声が震えているのが分かったら、僕もぐっと俯いて、唇を噛んだ。肩が震えるのが分かる。アズールの視線を強く感じて、しゃがみそうになる。
「ジ、ジェイド?」
ぺたり、一歩近付く足音がしたら、もう駄目だった。決壊したように、僕の腹筋が震え始めて、堪え切れずに笑った。
「ふっ、ふふふ! 何を言い出すかと思えば、アズール、ふふふ……!」
「お、お前! 笑うな!こっちは真剣に言ってるんだよ!」
「だからおかしいんですよ、ふふふ!」
ついに屈みこんでしまった背中を強めの力が叩いてくる。その痛みがまたおかしくて、崩れ落ちる。両膝を床に付けて、収まらない笑いの衝動に腹を抱えた。
「貴方の居るこの場所の他に、どこへ帰れと言うんです! ああ、おかしい!」
腹を両腕で抱き抱えるようにして笑いを収めていると、背中に乗っていた手が動きを止めて固まった。荒く呼吸を整えて、恐らく笑い過ぎて赤くなったであろう顔を上げてアズールの方を見れば、何故か彼の顔まで真っ赤に染まっていた。
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