ルームナンバー307 - 6/11

 
 第五幕

 

 鼻歌混じりに扉を開く。中は暗く、微かに残る暖房の温度だけが外の世界に勝る居心地の良さを主張している。アズールは扉を手で押さえたままで、笑顔で背後を振り返った。
「さあ、どうぞお入り下さい! ジャミルさん!」
「嫌だ」
 その笑顔を受けて、即座に両手を顔の前に出した。言葉に違わず顔を顰めた彼の、長い髪と薄手のカーディガンが冷たい風に煽られる。
「遠慮なさらず! 同居人もしょっちゅう友人を連れて来ますから、文句は言わせませんよ!」
「誰が友人だ! お前の友人として上がるなんて死んでもごめんだね」
 ジャミルの肩に置いた手はすぐさま振り落とされる。帰路でも散々した議論を繰り広げつつ、ポケットからスマートフォンを取り出した。届いている連絡は数時間前で停止していた。その画面をジャミルの方へ向ける。
「しかしジャミルさん、あなたの主人もこちらへいらっしゃるようではありませんか。寒空の下で一人待つより、中で雑談でもしながら待った方がマシですよ」
「絶ッ対に外で待つ方がマシなんだよ」
 吐き捨てるように言って、ジャミルは画面から顔を逸らす。暫し目を閉じ、思案している様子だった。次第に眉間に皺が刻まれていき、それから大きく溜息を零した。
「……分かった。中で待たせてもらう事にする」
「おや、気が変わりました?」
「外で待つと、アイツがうるさいからな」
 鬱陶しげに階段下を睨むジャミルに、アズールは笑いを噛み殺した。その目が以前より幾分も和らいだことを指摘したら、どんな顔をするだろうか。しかし、ここで逃げられては勿体無いので黙って中へ促した。

 キッチンで湯を沸かす。暖房の効果で冷えていた部屋は段々と温まり、凍えていた窓が結露していた。電気ポットの前でカップを用意しながら、いつものソファに顰め面で座るジャミルに目を遣った。その様が面白く思えて口元をにやつかせていると、じろりと睨みつけられる。
「こっちを見るな」
「酷いですね、僕はただ学友との再会を嬉しく思っていただけなのに」
「白々しい」
 インスタントのドリップコーヒーをカップの縁に引っ掛け、ポットを手に取る。紅茶は淹れると、どうしてもジェイドの物と比べて違和感を覚えるから自分では淹れない。湯を注ぎ、広がるコーヒー豆の香りに嘆息する。市井には便利な商品が多くて参考になる。
 カップを二つ、両手に持って学友の元へ行く。顰め面もこの香りで少し緩んだ。口の割に行儀よく待つ彼の前へ一つ置いて、その正面にもう一つ設置する。それからアズールがそこに座った。ジャミルは一瞬嫌そうな顔をしたが、息をついてカップを持ち上げた。
「……はあ、温かい」
「冬の温かい飲み物は格別ですね。ウィンターホリデー前後にホットドリンクがバカ売れした理由が分かります」
 学生生活を思い出しつつ、インスタントコーヒーを嚥下する。ジェイドがこちらにも興味を持ったら、淹れる物がなくなりそうだ、と想像した。彼は今の所、コーヒーに対してはあまり興味を示さない。好みではないのだろうかと考え、彼だけでなくフロイドも、アズール自身も紅茶の方が好みである事を思えば、存外気を回す彼の理由もそこにあるのかもしれないと思い至った。
「人魚にも寒いって感覚はあるんだな」
 そんな思考に潜っていたら、ジャミルがようやく興味を宿らせた目でアズールを見ていた。
「確かに僕達は寒さに強いですが、知っていたんですか?」
「ああ、以前にカリムが言っていたからな……」
 頷き、気まずそうに目を逸らされた。カリムに自分達の耐性について話したのは、目の前の男が暴走した事件の際だった。今更、それを持ち出す理由は無いし、そもそも同じく暴走した自分自身が掘り起こされたくない話題である。アズールは「なるほど」とだけ言い、コーヒーを飲んだ。
「でも、最近はそうでもないみたいだな」
「分かります?」
「今の語り口で察しが付かないほど鈍くはないんでね。それに……」
 言葉を切ったジャミルの視線が、アズールの首元に動く。つられて首元に触れたアズールは、部屋が冷えていたせいで未だに外していなかったマフラーに触れる。
「以前は真冬になっても、防寒具なんて滅多に身に付けていなかったしな」
「よく覚えていらっしゃいますね。結構、僕との時間が楽しかったのでは?」
「そんな訳ないだろう。お前が鬱陶しかったから覚えているだけだ!」
 一気にコーヒーを啜って、机に置く。その仕草も乱暴ではなく、育ちの良さが随所にみられる。感情的になる割に大人しい動作のちぐはぐさは、傍から見て面白い。笑顔でそれを見ていると、ジャミルが今日一番の顰め面を披露した。
「忘れもしない、三年になってやっとクラスが分かれたと思ったら! 授業が被る度にお前があの青いマフラーを持ってきて何度も何度も自慢してきたんだ! お前が誰に何を貰おうと、どうでもいいんだよ!!」
「その節はご迷惑をお掛けしました」
「今もな」
 空になったカップを回収しながら、アズールは張り付けた笑顔が崩れかけるのを感じて立ち上がった。ジャミルはそれを胡乱に見上げて、はたと目を瞬く。
「そういえば、ご自慢のマフラーはどうしたんだ? 流石に買い替えたか」
「いえ、もちろん持っていますよ。これは……その、色々とありまして」
「……へえ」
 相槌を打つジャミルの声がワントーン上がった。アズールは素早く背を向け、カップをシンクへ持って行く。その背中に、軽い笑声がぶつかった。
「ジェイドも大変だな」
 大袈裟に肩が揺れて、脚は止まった。その拍子に右足が左足に絡まって、危うく転びそうになった。あからさまな動揺を見せるアズールに、機嫌の悪かったジャミルが笑い声をあげる。
 体勢を立て直したアズールはシンクに二つカップを置いてから、ジャミルの方を振り向いた。今度はアズールの眉間に皺が寄って、ジャミルは愉快気にそれを見た。
「大変なのはこっちですよ!」
 思わず叫んだら、一瞬目を丸くした彼は、これまたおかしそうに爆笑した。
 腹を抱えて笑うジャミルにどう対処すべきか頭を悩ませている内に、玄関扉ががちゃりと開いた。そちらを見遣れば、ぞろぞろと三人の男が入ってくる様子が見えた。
「お邪魔しまーす! おっ、すごい量の靴だな! 賑やかなのは良い事だ!」
「いや、これオレの靴だよ」
「えっ!? 全部か!?」
「こちらの靴はジャミルさんでしょうか? ただいま戻りました、アズール」
 短い廊下の向こうからする三人の声に気付いたジャミルが、ふっと気分を萎えさせたように笑うのをやめた。それから笑い過ぎて赤くなった頬のままで顔を上げ、面倒気な表情を見せた。
「はあ、うるさいのが来た……」
「相変わらず賑やかな方ですね、彼」
 がやがやと急に音が広がった部屋に目を細めると、ジャミルがふとそれを一瞥して、鼻で笑う。
「言っておくが、鬱陶しかったのはお前だけじゃないからな」
「えっ? どういう意味です?」
「俺はもうお前らに関わりたくないんだ。さっさと二人でどうにかなってくれ」
 ソファにゆったりと背中を預けて、悠然と笑う。ジャミルの意図が読めずに疑問符を浮かべると、彼の唇が小馬鹿にしたように緩んだ。笑いの衝動が止まった筈の彼の目がまた弧を描く。リビングへ足を踏み入れたカリムが手を上げたのを見て、ジャミルの不敵な笑みが霧散する。
「――あんなやつ、誰も取らないから焦るなよ」
 新たな客人を出迎えるべく動き出していたアズールは、急に喉から入り込んだ空気で思いっきり噎せた。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA