第六幕
カチコチ、カチコチ。
時計の音が部屋の中に響いている。それくらい、今の室内は静かだった。フロイドはぼんやりと天井を見上げている。ジェイドもそれを横目に、読みかけにしていた教養本をゆっくりと読み進めていた。
秒針の音に混じって、しゅんしゅんと湯の沸く音がする。ぼーっとしていたフロイドが、不意に目の焦点をジェイドへ合わせた。ジェイドは本から目を離して、フロイドを見る。彼は口をあけっぱなしで、ジェイドを見つめる。見る対象を天井からジェイドへ移しただけだ。そう思い、くすりと笑うと、フロイドの口がやっと閉じた。
「ねー、ジェイドぉ」
「はい、何でしょう」
窓がカタカタと揺れる。今日も風が強いようだ。寒空の下を歩く人々は厚着で動き難そうだといつも思っていた。今は自分達もそうだった。
「その本、面白ぇの?」
「ええ、なかなか興味深いですよ。陸での考え方は、随分と易しくて面白いです」
「あは。そうだね、オレも思う」
海の中での常識は、陸においての非常識。そう言われて、アズールから貰った本のうちの一つだった。本来ならばフロイドも読まなければならないのだが、集中力の問題で長続きしないのを見越したアズールは彼に挿絵の多い本を渡していた。それを読んでいるところは一度しか見た事が無い。
そんなフロイドが、面倒そうな本に触れてくるのは珍しい。最近はジェイドもアズールも言わなくなったが、前までは「面白い?」などと聞こうものなら「読んでみて下さい」と渡されていた事だろう。今からでも言ってやろうか、と思案するジェイドをよそに、フロイドもまた別の思考に意識をやっているようだった。
「そういうの、自分では買わねーの」
「うーん……買いませんね」
話が続いたので、ジェイドは本を閉じて膝上に置いた。これ以上は集中して読み進められそうにない。ソファの背凭れに寄りかかったまま見上げてくるフロイドに向き直ると、また何か考えている様子を見せた。
「面白いのに、買わねーの?」
「そうですねえ……」
思った以上に食いつかれて不思議に思いつつ、閉じたばかりの本を見下ろす。重厚なハードカバーを撫でながら、問われた理由を考える。本を読むことは嫌いではない。書店を目的に出かける事もある。しかし、それで買うのは山歩きに関する物ばかりだった。そうして、教養本は探すまでもなく、いつも手元にあったからだと思いつく。
「欲しいと思う前に、アズールがくれるからですかね」
先回りをするのは自分の役目であるのに、彼は逆に与えてくる。自らの思考が全て知られているとは思わない。それでも彼はフロイドの次に自分を理解しているのだろうと、ジェイドは知っていた。
両手両足を投げ出していたフロイドが、のそのそ体を起こした。今度はジェイドの肩に寄りかかり、息をつく。随分と疲れているようだ。趣味のパルクールや、案外続いているバスケットボールが原因だろうか。
「いまは欲しい物あんの?」
「今ですか? うーん、そうですね……ああ。マフラーでしょうか?」
「へ」
寒さを強調する白い空に視線を向けて答えると、フロイドは何故か呆けた顔をした。
「以前の物がそろそろ、駄目になってきてしまったんです。お気に入りだったんですが」
数年前に購入したオリーブカラーの物を思い浮かべる。当時は必要なかったマフラーを、店頭で見かけて何となく買ってしまった物だった。それと並ぶ配色が、レモンイエローとスカイブルーであった事が決め手となったのを鮮明に覚えている。プレゼント、という体にすれば衝動買いを咎められずに済むだろうという発想だったが、それ自体はすぐに露見した。それでも怒られなかったのは、二人がそれを気に入ったからだ。アズールは口に出さなかったが、冬になれば毎年それを付けていた。だからこそ、ジェイドも揃いのそれを、購入したその日よりもずっと気に入っていた。
それに、と思う。数日前にアズールが新しいマフラーを買っていた。やはりお互いにガタが来ていたのは見ていたから、納得した。しかも、彼の持っていたマフラーの色は鮮やかなターコイズブルー。あの日以降、密かにマフラーに対する購買意欲が増していた。合わせるならやはりシルバーだろうかと考えて、買い出しの際に少しだけ見た日もある。
ふと沈みかけた考えをフロイドの方へ戻すと、なぜか憐れむような目で窓の外を見つめていた。
「……どうしました?」
「激励してんの……」
「え?」
かちりと小さな音が響いた。湯が沸いたらしい。促す視線をフロイドに向けると、彼はゆっくり立ち上がってキッチンへ入っていった。
少しして、フロイドは二つのマグカップを手にソファへ戻ってきた。
「ココアにしたー。はいどーぞ」
「ありがとうございます。いい香りですね」
「良いやつ買ったからね。アズールにはナイショ」
くすくす、悪戯を明かして笑い合う。本を机の上へ避難させてから、熱いマグカップを引き寄せる。口を付けたココアも熱かったが、いつの間にか冷えていた体の芯を温めた。
いつも、それぞれに淹れる物は決まっている。ジェイドなら紅茶を、アズールならコーヒーを。そしてフロイドはそれ以外の何か。気分によりけりだが、大抵は美味しい物が出てくるのでアズールも彼の余分な買い物にはあまり文句を付けなくなっている。しかし、金銭感覚の狂っているフロイドは偶に馬鹿高い買い物をすることがあった。恐らく今回もそうだろうと察して、秘密を守る事にする。美味しいのだから仕方がない。
「ジェイドも偶には別のもん淹れたら?」
「ふふ……僕は紅茶を淹れる事が好きなんです」
甘いココアを口に含んで、味蕾で存分に味わって嚥下する。液体を通した喉が温まって心地いい。帰ってきたらアズールにも、ぜひ味わってほしいと思った。
「アズールが喜ぶから?」
不意に、静かなトーンで紡がれた言葉が油断していた心を揺らした。意味を咀嚼してから、フロイドの方を向く。なんでもないような顔をして、どこか切実な瞳だった。
少しだけ、考える。それから、ジェイドはマグカップを傾けて、ココアを飲んだ。
「はい」
薄い茶色の水面に映った自らの表情に笑いそうになる。ちらとフロイドを見遣れば、ひどく嬉しそうな顔でジェイドを見ていた。
「ただいま戻りまし……た…………」
それから暫く、また静かな時間を過ごしていると、アズールが帰宅した。彼はリビングへ踏み入れるなり、驚いた顔をして立ち止まる。二人して首を傾げた所で、雑に鞄を投げ出した。
つかつかとソファでくっつく二人に近付いてきたかと思うと、恨めしげにフロイドの方を見た。
「あはっ、ごめん」
「お前……」
「後で面白い話聞かせたげるから許してえ」
首を傾げたままのジェイドを置いて、フロイドはけらけら笑いながらソファを立つ。空いたマグカップを掴んでキッチンへ行きながら、ぽんとアズールの肩を叩く。
「……ココアですか?」
「え? はい、そうです。とても美味しかったですよ」
アズールは溜息交じりにそれを受けて、まるで椅子取りゲームのように迅速にジェイドの横に座った。その様子がおかしくて笑うと、アズールはむっとした。
「ぜひ、アズールにも飲んで頂きたいです。フロイドに頼んできましょうか」
「……お願いします」
「では」
不遜に頷いたアズールに、ジェイドはそっと右手を上げて微笑んだ。
「この手を離して頂いても?」
次の瞬間、繋がれた手は真っ赤になったアズールによって叩き落とすように離された。
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