ルームナンバー307 - 8/11

 
 第七幕

 

 バタバタ、外廊下を走る足音が冬の空に響いている。その後をゆったりしたペースで、二つの足音が付いて行く。
「えーっと、307、307……ここッスか?」
 立ち並ぶ扉を数えて、ラギーが振り向く。鞄からキーを取り出しながらジェイドが頷くと、急かすように足踏みをした。
 カードキーを通し、鍵が開くと同時にラギーはジェイドを見てから扉を押し開ける。途端に、温い空気が三人の冷え切った全身を包み込んだ。
「あー、あったか! お邪魔しまーす!」
「どうぞ、シルバーさんも」
「ああ。邪魔するぞ」
 堪らず駆け込んでいったラギーに続き、シルバーも中へと促した。彼は確りとした足取りで玄関へ進む。多少のふらつきのあるジェイドはそれを見て感心した。ラギーも元気にリビングへ駆け込んで、「うわっ、良い部屋!」と叫んでいる。シルバーが靴を脱いで上がるのを確認したら、ジェイドも扉を閉めて靴を脱いだ。
 登山用ウェアを脱いで、隅っこに寄せる。ラギーもウィンドブレーカーを脱いで、早速座ったソファに掛けた。
「シルバーさんもお掛け下さい。今、紅茶をお出ししますから」
「すまない。頼む」
 どうしようかと迷う姿が、数日前に訪れたリドルを思い出させた。しかし、シルバーはフォーマルな彼と真逆にスポーツウェアを身に纏っている。言われた通りに座ろうとした直前、彼はくるりとラギーへ背中を見せた。
「汚れが無いか、確認してもらえないか? 人の家を汚したくないんだ」
「律儀ッスねー。大丈夫ッスよ、シルバー君は転んでなかったし」
「そうか、良かった」
 安堵した様子でシルバーもやっと腰を落ち着かせる。対面側で、ラギーは土埃の付いた自らの袖を摘まんでいる。
「ジェイドくーん、ちょっとくらい土が付いても良いッスよね?」
「大丈夫ですよ。テラリウムで汚す事もありますから。まあ、フロイドの機嫌は悪くなりますが」
「えっ? それ大丈夫なんスか? オレ」
 不安げなラギーの声には頷くだけに留める。今更どうしようもない事を咎めても仕方がない。キッチンの書棚を眺めて、ノートを取り出す。紅茶のブレンドをまとめたレシピノートだ。その中から、疲労回復効果のある茶葉を探す。目当てのレシピを見つけて、冷蔵庫の中を確認する。野菜室に鎮座する小ぶりな生姜を取り出すと、ノートを棚へ戻した。
「俺も手伝おう」
 生姜を擦っていると、その様子が見えたらしいシルバーが立ち上がり声を掛けてきた。ジェイドはちらりと振り向いて、微笑む。
「しかし、お客様に手伝わせる訳にはいきません」
「客……いや、それ以前に俺達は友人だ。それならいいだろう?」
 止める間もなく、彼はキッチンへやってきた。腕まくりをする姿を見てしまっては、ジェイドも最早止める気は起きない。彼の目に宿る気遣いの色も、何となく無下にし辛かった。
「……ふふ。ええ、いいですよ。友人であれば」
 そう言って、生姜を入れたボウルとグレーターを手渡した。そして、力強くおろし始める。その速度にまた感心する。
 ポットに水を注いでいると、今度はラギーがキッチンを覗いた。
「オレも何か手伝うッスよ」
「いえ、大丈夫ですよ」
「でも居心地悪いんスけど……あ、アズール君に連絡しとこっか?」
 ポットのボタンを切り替えて、振り向いた。ラギーはにやにやしながらジェイドを見て、反応を待っている。彼にそんな風に揶揄われるとは思わなかった。それに、揶揄われる理由が分からない。アズールを親代わりだと揶揄しているのだろうか、とまで考えた時、シルバーが顔を上げた。
「それがいいと思う。アズールはいつもジェイドを心配しているからな」
「え?」
 驚いて、シルバーの方を見た。彼はいつも通りの真面目な顔で頷いている。ラギーはその言葉を受けて、弾かれたように笑った。
「そうそう! アズール君、いつも気にしてるッスよね! 今日も絶対、反対されてると思った!」
「ああ。会う度にジェイドの話を聞かされている……」
 磨り下ろされた生姜が凄いスピードでボウルに溜まっていくのを見ながら、内心で困惑していた。楽し気に笑うラギーと、頷くシルバーから視線を外して、困惑が収まるまで淡々と下ろされていく生姜を眺め続ける。
「ま、ジェイド君も大概ッスけどー……そういや最近、ジェイド君はあんまり二人の話しなくなったッスね」
「そうでしょうか」
「そういえば、今日は一度も聞かなかったな。喧嘩でもしているのか?」
 真っ直ぐに見据えて問いかけてくるシルバーに思わず苦笑いする。ただそれだけの理由で喧嘩を想像されるほど、絆を明け透けにしているつもりはなかった。他者の心の機微に聡い二人だからこそ、気付かれたのかもしれないが。質問の答えを悩みつつ、今の状況はそう結論付ける事にした。
 近頃は、確かに昔ほどアズールとフロイドについて言及する機会は減っている。先程は首を傾げたものの、僅かながら自覚はあった。共通の知り合いが外界に出て減少した事が最たる理由だが、学友相手には当てはまらない。逆に学友とは三人で会う事が多いというのも理由の一つだが、今は違う。消去法で思考していき、ふむと頷く。
「必要がないから、ですかね」
 これまでは情報収集や関係性の構築に二人の話題を使用していたし、単純に二人と他の寮生との交流に興味があった。しかし今は、二人との関係性を利用するよりも、もっと即物的な交渉が役に立つ。それに、わざわざ他人から動向を窺う必要性も無かった。一部屋に固まって、尽きず外での出来事を報告し合う夜の時間を思い浮かべた。
 く、とラギーの喉が鳴る。反射的にそちらを見ると、口元が引き攣っていた。ラギーはばっと両手でそれを隠す。その肩は震えていた。
「じ、ジェイド君、それ……余裕が出来ちゃったって事じゃないスか……」
「は?」
「ひっ、も、もうムリ! あっははは!」
 突然笑い出したラギーを呆然と見下ろす。シルバーは「失礼だろう」と咎めながら、ちらりとジェイドの顔色を窺っていた。咄嗟に困り顔を形成して首を振れば、シルバーもまた困ったような顔をした。

 ティーポットからティーカップへ、ジンジャーティーを注ぐ。三つのカップが暖かな刺激で満たされると、一斉に口を付ける。
「うわっ、美味いッスね! さすがジェイド君」
「ああ……こんなに美味い紅茶は、久しぶりに飲んだな……」
 どこか遠い目をしたシルバーにラギーが同情の目を向けた。ジェイドもゆっくり嚥下して、体が温まっていくのを感じた。
「本日は僕の趣味にお付き合いいただいて、ありがとうございました。とても楽しい時間でした」
 話題転換の意味も込めて、改めて二人へ礼を述べる。今日は、元々はシルバーからロープワークについて学ぶ予定だった。偶然にも街中で再会した際に約束を取り付けた物だから、後から知ったアズールには迷惑を掛けないようにと念押しされた。そして今日になって、目的地の前でラギーとばったり会ったのだった。
「お礼なんていらないッスよ。オレに関してはこっちも自分の趣味……てか食材調達だし?」
 笑いながら、足元に置いていたビニール袋を指す。目的は違えど、彼も山歩きをするという事で行動を共にしたのだった。シルバーも頷く。
「こちらこそ、植物の知識がより身についた。感謝する」
「ふふ。それはラギーさんのお陰でしょう」
「ジェイド君も、なかなかッスよ」
 褒め言葉を言いつつ、ラギーは少しうんざりした顔を見せる。ジェイドはただ微笑み返して、紅茶を啜る。
「あ、既読付いた」
 ピコン、と小さな音がして、反応したラギーがスマートフォンの画面を覗いて呟いた。ジェイドがそちらへ視線を向けたら、「げっ」と小さく悲鳴が上がる。
「オレ、もう帰るッス。ありがとジェイド君」
「おや? 急ですね」
「巻き込まれんの嫌だもん!」
 清々しいまでの本音を口にして、ビニール袋とウィンドブレーカーを両手に持つと、「じゃあまた!」と走り去っていた。ばたん、と扉が閉じていく様子を呆然と見送ると、味わって紅茶を飲んでいたシルバーが動きを止めた。
「アズールか?」
「帰って来ましたかね」
 こつこつと鉄板を鳴らす足音が高らかに響いていた。そして、扉の向こうから、ラギーの弱々しい悲鳴が聴こえて、思わず顔を見合わせる。
 足音が大きくなって、理由は分からないが叱られる予感が過る。しかし、起きてしまった事の対処は不可能である。ジェイドは窓から逃げようとするシルバーを引き留めるので精一杯だった。

 

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