ルームナンバー307 - 9/11

 
 第八幕

 

 柔らかなソファに寛いで、薫り高い紅茶を口元へ運ぶ。その手元には文庫本がある。未だ朝早い時間だからか、空気も澄んでいて心地良い。なんとも優雅な時間であった。嘆息しながら、最初の一文を何度も読み返す。
 次の文章へ進もうとはしていた。しかし、ただの一文すらどうしても頭に入らなかった。紅茶は美味しいし頭は冴え渡っている。冷涼な朝だった。足元にある、異物を除くなら。
「何でしょう?」
 ちら、と視線を下へ向ける。にこりと笑った彼は、コーヒーテーブルの前で、ぴしりと背筋を伸ばし、床に正座している。彼はいつも通り、堂々として反省の色もない。
「……膝の上に重しでも乗せたら反省します?」
「やめて下さい。僕は反省していますよ」
「どこが……」
 何時まで経っても先に進まない本を畳んで、机に投げる。優雅な朝が台無しだ。爆睡するフロイドの寝息が扉一枚隔てた向こうから聴こえている時点で、優雅さなど失われていたが。
 困っているのは眉だけで、常と変わらない微笑を貼り付けた男のどこに反省を感じ取ればよいのか分からない。溜息は結局零れてしまった。
「では、どうして僕が怒ったのか分かっているんですか?」
「帰宅が遅れる連絡を失念したからです」
「そうだよ! あと何回、同じ事を言えばいいんだ! お前は本当にもう!」
 バンッと机を平手打ちして叫ぶ。フロイドの寝息が一瞬止まったが、少ししたらまた再開した。図太い神経の持ち主である。それは目の前で、怒りを受けている男も同様であった。
「すみません。昨日、シルバーさんにお連れ頂いた山が素晴らしくて……しかし思った以上に足場が悪く」
「だから怪我までして帰ってきたと!? もう山に行くな、この馬鹿!」
「それだけはご勘弁を……」
 ぐるぐる巻きにされた腕を縮こまらせながら、本当に困った顔をする。この顔には負けるかと毎度思うのに、どうにも弱い。視界に入れないように目を瞑って眉間を揉む。夜中まで帰ってこないだけでなく、血塗れの腕で帰ってきたものだから肝が冷えた。それを平然と「すみません、忘れていました」で済ませようとするのだから自分の怒りも正当だったとアズールは確信していた。フロイドも目が覚めたら、多少は味方になってくれるだろう。
「……そういえば、お聞きしたい事があるのですが」
 怒りを呈したばかりのアズールに、ジェイドはけろりとした顔で口を開く。思わず唖然と彼を見て、それから諦めてソファに寄りかかった。
「なんです」
「どうしてアズールは、皆さんに僕の事をお話しされるのですか?」
 予想外の質問に驚き、咄嗟に声を出そうとして流入した冷たい空気に咳き込んだ。よろよろ起き上がり紅茶を飲む。湯気が渇いた喉を潤したお陰で咳はすぐに止まったが、動悸が続いていた。脈打つ心臓を隠しながら、ジェイドの方を見遣る。
「何の話ですか?」
「リドルさんや、昨日のお二人が仰っていましたよ。貴方は会う度に僕の話をするのだと」
 しまった、とすぐに思い浮かんだが飲み込む。いつかは露見する日が訪れるだろうことは初めから分かっていたことだ。呼吸をゆっくりにして、動悸を落ち着かせる。別に、この事実が気付かれる事自体は不味くない。その先にある”意図”に気付かれるのが怖かった。それを伝える覚悟が、未だに出来て居ない。
 黙り込んだアズールに、ジェイドは怪訝な顔をする。それから、ふうと溜息を零した。
「そんなに心配ですか?」
「しっ……心配なんかじゃ」
「”僕の”ではなく、周囲の……でしょう。分かっていますよ」
「……は?」
 正座した膝の上に握り拳が二つ置かれる。どうにも雲行きが怪しい、と察知したが少し遅かった。ジェイドは顔を俯かせて、淡々と静かな声を紡いだ。
「信用なりませんか、僕の事は。貴方にとって不利益な事など致しませんと、貴方こそ、どれだけ示せば伝わるのですか?」
「な、何を言って……」
「フロイドの事は、触れ回らない癖をして。僕は一体、貴方にどんな迷惑をお掛けしたと言うのですか。僕が、貴方に……?」
 拳が固く握られたのが、ズボンの皺で見て取れた。俯いたままの顔は上がらない。アズールは信じられない心地でそれを見ていた。今にも震え出しそうな声が、自分に向けられている事実が、まるで遠い夢の中の出来事のように思えていた。何年経っても、彼のこんな姿は、目にすることがないのだと思っていた。
「……貴方にとって、僕は」
 思わずぼうっと見詰めていたアズールの意識を、微かに震えた彼の声が呼び戻す。ジェイドは静かに、顔を背けた。
「僕は、迷惑ですか?」
「違う!」
 その言葉だけは今すぐに否定したくて、叫ぶ。正面へ戻って来ない彼の肩を掴んで、自らの膝も地面に付いた。ジェイドがそろりと目線をアズールへ戻す。驚いて丸くなった瞳がアズールを映していた。
「そうじゃない、違うんです。僕は、僕は……」
「…………」
「僕、は……」
 肩を掴む力が強くなる。ジェイドはそれでも表情一つ変えないで、真っ直ぐにアズールを見定めている。その目に見え隠れする弱さに気が付いてしまったものだから、アズールは緊張で唾を飲み込んだ。ごくりと喉の鳴る音が響いて、余計に緊張する。
 ――今日だ。そのタイミングは、今なのだ。
 揺れる瞳に背中を押されて、アズールはぎゅうと目を瞑り、それから大きく口を開けた。
「僕はお前の事が――」
「ふあーあ、おはよおアズール、ジェイドぉ」
 ガラッ! と音を立てて、真横の扉が開け放たれた。欠伸をしながらフロイドがふらりと姿を現して、はたと二人を見た。それから、寝ぼけたような顔がすっと引いていく。するりと後退って、誤魔化しに笑ってみせた。
「ごめえん、アズール。二度寝するから、もういっかいよろしく」
 バタン! と開いたばかりの扉が閉じた。それからぼすんと布団に落ちる音が聞こえて、それきりしんとした空間が広がった。
 掴んだままだった肩から体温が伝わってきて、緩やかに意識を現実へ戻した。それから顔を見合わせて、くすりと笑う。
「流石はフロイドですね」
「ええ、本当に……」
 もう一度、テイク2なんて簡単に出来る事ではない。引っ込んでいったフロイドを恨む反面、今はタイミングでは無かった気がしてきて感謝もした。力の抜けた肩から手を離す。
「紅茶を淹れ直しましょうか」
 微笑みながら、ジェイドが尋ねる。考える前に頷いて、ふと先日聞いたフロイドの話を思い出した。立ち上がろうとするジェイドの手を掴んで引き留めると、彼の目が少しだけ丸くなる。
「ちょっと待って下さい。渡したい物があるんです」
 ジェイドが立ち止まるのを見て、クローゼットに駆け寄る。目的の棚を開けて、鮮やかなターコイズブルーを取り出した。逡巡はもう一瞬だけで、それを引っ掴むとジェイドに向けて突き出した。
「これは……貴方のマフラーではありませんでしたか?」
「…………いいから黙って受け取りなさい」
 くす、と口元に手を遣ったジェイドの首に無理矢理マフラーを巻きつけた。包帯を巻いた腕を庇いながら笑う彼には、想像以上に良く似合っていた。
「どうでしょう?」
 楽しげに微笑んで、マフラーを引き上げる仕草が様になっているのが憎たらしくて、それ以上に別の感情が動かされ、何も言えずに目を泳がせた。ちらと盗み見たジェイドは、嬉しそうにターコイズブルーを見つめていた。

 

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