ルージュとヴィオレ

 

 薄暗い夕方の弱い照明の下、ラップトップの薄っぺらいキーを叩く。文面を簡単にさらって送信ボタンをクリックする。空になったメールボックスを横目で確認しつつ、茨は傍らに置いていたコップを取り上げる。
 そろそろ休憩を取る必要があるな、とぼんやり思いながら渇いた喉に水分を流し込もうと傾けたコップは、しかし一滴のコーヒーをこぼすだけだった。

「……げ」
 仕方なしに足を向けた共有ルームは、ブラインドから差す光と人工灯が共存して、いやに明るかった。ドアを開けるなり視界に飛び込んできた横顔に思わず足を止めた。漏れ出た心の声に反応して、彼は読んでいた雑誌から顔を上げる。
「何用ですか?」
「……これはこれは、奇遇ですね。自分は喉が渇いたので水を一杯飲もうかと思っただけなんですが、いやあ自動販売機で済ませておけばよかった!」
「今からでもそうなされてはいかがです?」
 重力任せに回る口にも涼しい微笑みで済ませ、弓弦は音を立てずに紅茶を飲む。
 茨は更に言い募りそうな口を制し、弓弦を視界の外へ追いやってキッチンに入る。事務所から持ってきたコップを簡単に洗って水を注ぐ。からからの喉は水道水でも美味しく感じる。
 喉を潤していると、ふとカウンターの上にボウルとゴムベラが放置されているのが目に入った。弓弦が居た部屋は大抵、生活感をなくす程度に片付けがされているというのに珍しい。そう思い弓弦のほうを見る。彼はまた何やら雑誌を熱心に眺めていた。
「……何を読んでるんですか?」
 コップを片しながら、軽い調子で声をかける。弓弦は一瞬、気付かなかったのか動作しなかった。しかし少しの間を開けて、弓弦がゆっくり茨の方を向いた。
「こちらの雑誌ですか?」
「そうですよ。随分と熟読していらっしゃる様子なので、興味が湧きまして!」
 ラックの中にコップを置いてから、ルーム内に戻る。弓弦は胡散臭そうに顔を顰めたが、事もなさげに雑誌を畳んで机に置いて見せる。
「これは、カタログ……バレンタイン特集?」
 いわゆるお取り寄せスイーツの類が所狭しとページに詰められるカタログ。弓弦の対面に腰掛けながら、弓弦とカタログを見比べる。
「あんたって甘党でしたっけ?」
「そういうわけではありませんが。坊っちゃまや皆様への、バレンタインの贈り物を考えていたのです」
「ああ……」
 でかでかと表紙を飾る言葉を読み直して、気の抜けた声が出た。あまりに興味がなさすぎて考えもしなかった。茨にとってバレンタインといえば、ライブイベントなどの商機でしかない。
「日頃の感謝を伝える日でございますから。やはりチョコレートが意図を汲みやすいでしょうし」
「なるほど、さすが教官殿。イベント事にも抜かりないですな」
「あなたは何もしないのですか?」
 雑誌にはずらりと美しい装飾品じみたスイーツが並んでいる。それに目を滑らせながら、先の質問を鼻で笑った。
「ショコラフェスへは参加しますよー、もちろん」
「そうではなく、あなた個人では?」
「するわけないでしょう。あんたじゃないんですから」
「はあ、そうですか」
 小さく呆れを込めた息をついた弓弦は、コップを空にして片付けに向かった。先ほど出されていた製菓道具は、誰かしらがバレンタインの菓子作りを行った名残だったのだろうと納得する。
 それにしても、と再度チョコレートだらけのページを見遣る。量に対して価格があまりに高い。材料の質やら手間代やら、そういった要素が大きいのだろうが、到底買う気にはなれない。だからこそ、こういう機会でもなければ買わないようなものを贈るというのは案外理に適っている気もする。
 適当に開いたら、赤いジュエル、という名前で売り出されている真紅のチョコレートなんてものもあった。着色料と思われるが見目は綺麗だ。ここは何度も開かれていたようで、ページに折り目がついていた。あいつはこういうのが好きなのか、と勝手に推察したところで、我に返りページを飛ばして思考をやめた。
「……あなたはトリュフが好きなのですか?」
「はい?」
 いつの間にか戻ってきた弓弦が、横から茨の見ているページを覗き込む。ちょうど開いていたのが小さなトリュフチョコレートの特集ページだったのだが、特段理由もなく、何となく目が留まっただけだ。
 当の弓弦は揶揄う風でもなく、明日の弁当のおかずを訊くくらいのテンションで言う。茨は意図が読めず怪訝な顔をした。
「いえ、せっかくですから茨にもあげようかなと思いまして」
「えっ」
「トリュフは作りやすいですし、もう少し凝った物でも……」
 そのまま隣に座って、楽しそうにページを捲っている。鼻歌でも歌いそうな横顔に、昔ご飯を作ってくれた時の顔が重なって見える。
 ふと遠目に見たキッチンカウンターの上には、まだボウルが置いてあった。
「……なんでレシピじゃなくてカタログを見てるんですか」
「え?」
「作るんでしょう。その口ぶり」
 最早芸術品みたいなトリュフチョコを指さしたままで、弓弦は茨を見た。黙ってしばし目を合わせ、弓弦がついと目線を躱した。
「茨はともかく、他の方々にはきちんとしたものを差し上げたいですから」
「…………そうですか」
 ぱたん。雑誌を閉じて、書棚に戻した。共有図書かよと思いつつ、茨は黙って弓弦を見る。弓弦はそのままキッチンへ引っ込んでいく。
「弓弦」
「……はい?」
「あんたって、チョコレートは好きなんですか」
 弓弦は一瞬だけ怪訝に眉を顰めたが、口を開こうとしたあとで目を丸くした。その顔を見ていられずに視線を逸らしたら、小さく息を吐く音が聞こえた。
「嫌いじゃないですよ」
 それだけ言って、今度こそキッチンに入って行った。その背を見送って、ソファにだらりと身体を預けた。
 一頻り深呼吸をすると、さきほど弓弦が仕舞ったカタログを引っ張り出す。スマートフォンを片手に評判諸々を調査しながら、バカな事を、と俯瞰する自分が悪態をつく。それでも、聞こえ始めた鼻歌を聴きながら、ページをめくった。日頃の感謝だかは関係なく、菓子ひとつで喜ぶ弓弦、なんて奇妙なものが見てみたいだけだ。
 ちらと盗み見た弓弦はやはり楽しそうにチョコレートを刻んでいる。こんな座りの悪いような妙な時間が、悪くないなんてことを考えてしまった。

 ◇

 ラップトップの画面の向こうに、すっと腕が差し出された。続いて鳴った陶器の接触音に、顔を上げると、存外近くにいた弓弦がにこりと笑った。
「どうぞ。ハッピーバレンタイン、でございます」
「……どうもありがとうございます」
「坊っちゃまに差し上げるお菓子のついで、でございますよ」
「分かってますよ」
 顔を背けて、机に置かれたものに目を向ける。高価そうな皿の上に、小さなトリュフチョコレートが二つ鎮座していた。綺麗に立ったツノにホワイトチョコレートの装飾。もう一方はラベンダー色の表面に金箔が散りばめられている。どちらもカタログで眺めていたものに瓜二つだった。
 向かい側に座る気配を感じて、茨も机に置きっぱなしにしていた箱を手に取る。一瞥をくれてから、すっとおざなりに差し出した。
「どうぞ」
「おや……ふふ。本当に用意したのですね」
「いやあ、自分も閣下や殿下のついででありますが!」
「それはよかった」
 嫌味か、と言い返すつもりで視線を上げたら、言葉通りの表情をしているのが見えて口を歪める。
「開けても?」
「好きにしてくださいよ、あんたにあげたんですから」
 では遠慮なく、と言いつつ、丁重に為されたラッピングを丁寧に剥がしていく。リボンを解いて、現れた透明な蓋に弓弦の手が止まった。
「……これは……」
「……気に入りませんでした? ページに折り目が付いていたので、気になっていたのかと……?」
 想定外の反応に動揺して素直に言うと、弓弦の目が泳いだ。それから箱を持ち上げて、笑顔を作る。
「いえ、その通りです。綺麗でしたので、何度も目を惹いていて……ありがとうございます」
 片眉を上げると弓弦の目が逸れた。分かりにくく動揺している弓弦は、しかし嬉しそうに箱を開けた。
 彼の細長い指先がそれを摘むのを横目に、とりあえず考えるのをやめて、目の前のトリュフを手に取った。
「……あ」
 跳ねた黒色のツノに触って、ふと気が付いた。顔を上げたら、弓弦は一粒目を咀嚼しているところだった。茨も一粒摘み上げて、口に放り込む。強い甘さが、滑らかに舌へ溶けていった。
 跳ねた黒髪を見ると、薄紫の瞳がぱちりと瞬きして茨を見る。しばしの間、躊躇ってから、自分の髪を摘んだ。
「……なんですか?」
「いーえ。この状況が気味悪くて笑えてくるなと思いまして」
「それは同感ですね。まあ、たまには悪くもないでしょう?」
 肯定も否定も言葉にならず、ぱさりと赤い髪が落ちる。
 弓弦がもう一粒、口に入れた。赤く溶けた残滓が箱に残っていた。微かに広がるベリーの香りが、いやに好い芳香だった。

 

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