肌寒い空気を吸い込んで嘆息する。開発の進んだ中心都市は便利なものだが、これは優れた利便性に囲まれた中では感じられない、爽やかな空気だった。開いた窓から流れ込む風は肌を刺すように冷たいのに、心地良く感じられる。防寒として受け取った伝統衣装も、今はクローゼットに掛かっている。
冷たさは、ジェイドにとって馴れ以上に快いものだった。目を閉じて、頬を撫でる感触を享受する。憧れの地へ足を踏み入れた興奮で紅潮する筈だった頬も、この風ですっかり隠せてしまった。
ガラスを隔てた景色の中に、美しい雪に覆われた霊峰がある。口元を緩ませながら、飽きずにそれを眺めた。まだ眠るには早い。ベッドへ置いていたスマートフォンを引き寄せる。窓辺に寄せたウッドチェアが低い温度に晒され、軋んだ。
白い窓の額縁に肘を乗せて、スマートフォンのカメラレンズを美しい山へと向ける。月の光が降っている今は、早朝に見たそれとは異なった趣で好ましい。ピントを合わせ、シャッターを押した。
暫くそうして、かのモルン山を色違いの双眸へ焼き付け続けて、ふと冷え切った身体に気がついた。人間であれば、とうに震えて布団へ潜り込んでいる頃であろう。名残惜しく思うが、風邪を引いては元も子もない。大きく開けていた二重の窓を閉じようと手を掛けた。
しかし、片側の窓を閉じたところで、額縁に置きっぱなしにしていたスマートフォンが目に付いた。何とはなしに手に取り、カメラロールを眺める。見事に撮れた霊峰の写真が大半で、残りは最初に撮った集合写真と、ラウンジの資料用に撮影した郷土料理の写真が並んでいる。
そして、この空気の中で、最高の景観の中で、彼の声が聴きたいと思った。
◇
小さな文庫本を眺めて数時間、ふと溜息が零れ落ちた。どうにも進む時間が遅い。物語の展開が遅いせいでも、何度も同じ話題を繰り返す冗長さが気に入らない訳でもない。嫌いな本など読む価値もない。最後のページを捲ったら、急速に疲労感が全身を支配した。
ばさりと本をベッドへ投げて、一緒に倒れ込む。寝転んだ顔の真横には、一度も震えないスマートフォンが落ちている。指で触れた画面は夜中を示している。窓の外へ視線を投げ掛ければ、月の光だけが頼りの、見慣れ過ぎた暗い深海がそこにある。
本当なら、今すぐにでも身体を起こして、机に向かうべき仕事があった。別に明日でもいいが、早くて悪いことはない。それなのに後回しにしてしまいたい怠惰な感性があった。自分らしくないと邪魔な前髪をかきあげ、代わり映えのない天井を暫く眺め続ける。
意味もなく、やる気の起きない事はゼロじゃない。それでも、いつもは何かと奮い立たせて席に着く。それが今日は上手くいかない。かと言って、染み付いた習慣を無視してすんなり入眠できるわけでもなかった。
息をゆっくり吐き出しながら、気怠い体をどうにか起こす。投げ捨てた本を取り上げて机へ置き直し、それから、付けっぱなしのスマートフォンの電源を落とそうと手を伸ばした。
――その瞬間だった。画面へ触れかけた指先に、振動が伝わった。暗い室内とアズールを唐突に照らし出したスクリーン上には、見知った名前と画像が表示されていた。
思わず息を呑んで、引っ込めかけた手でスマートフォンを取る。それからふっと息を抜いて、通話をタップした。
◇
「もしもし?」
たっぷり七コール待って、聴き慣れた声が耳元で響く。少し眠たげに掠れたそれは、真夜中に近い現在をよく表していて、言葉を発するより早く笑い声が漏れた。
「……ジェイド?」
「こんばんは、アズール。良い夜ですね」
不機嫌に低く唸る呼び声へ、被せるように言葉を紡ぐ。芝居掛かった声色に喜色が混じるのがジェイド自身も分かった。それを誤魔化す事はせずに、ただもう一度笑い声を交ぜる。通話口の先では、アズールが小さくため息を吐いている。またいつもの小言か嫌味が来る、と半ば期待しながら返事を待つ。ジェイドの視界には、愛すべきかの山が広がっている。冷たい、爽やかな空気が肺を満たす。それから、鼓膜を揺らす声。
「ええ本当、最っ高の夜ですよ。自由で、とっても静かで、集中力が高まります」
「それは良かった。僕もです」
ふんと鼻を鳴らした音に続いて、そうですかとぶっきらぼうに返される。素直ではない幼馴染の心情が透けるようで楽しくなる。
心臓が高鳴って仕方がない。憧憬していた風景と、一等安心する声が傍に在る。余りにも満たされている瞬間だった。時間が止まれば良い、などと俗な感想を抱く程度には、今この時間が充足で溢れていた。
「あと一ヶ月くらい滞在出来ないものでしょうか」
「い――一ヶ月だって!?」
不意に溢れた本音に、おやと思う前に素っ頓狂な叫びが響き渡った。きぃんと耳鳴りがして、思わずスピーカーを耳から離す。
「駄目に決まっているだろう! ラウンジは、いや単位はどうするつもりです!」
「相応の対価を支払う、と言ったら貴方がどうにか誤魔化してくれませんか?」
「嫌だよ! どうして僕がそんなことを!」
「そんなに興奮しなくても。冗談ですよ」
「……分かってますよ!」
スピーカー越しでも荒い呼吸が聴こえ始めたところで耳元へスマートフォンを寄せる。それから、額縁から肘を離して姿勢を正す。
「調査の方は順調です。ご安心ください」
「そこは心配してません。成果は戻ったら報告して下さい。それからフェアについて本格的な構想を練り始めます」
「はい、かしこまりました。では……」
段々と山から降りる風が強くなってきた。ガタガタと音を立て始めた窓に手を伸ばす。
「風邪は引かないで下さいよ。他寮へ借りを作るつもりはありませんから」
「ええ、分かっていますよ」
「……分かっているなら早く寝てください」
「もちろん。アズールもですよ」
きぃ、と古くなった金具が音を鳴らして、緩やかに窓枠へ収まった。ぱたりと閉じた窓はもう風を通す事はない。すっかり静かになった部屋の中、沈黙を続けたアズールが小さく安堵の呼吸をこぼした。
◇
「おやすみなさい」
返事も聞かずに通話を切った。最後に聞こえた小さな笑い声が返事だと思った。アズールはベッドへ腰掛けていた脚で、机へ向かった。
散らばった書類は明日片付ければ良い。おざなりにしていた文庫本だけ所定の場所へ戻したら、またベッドへ戻った。
広いシーツに四肢を投げ出して、目を閉じる。随分クリアになった脳内で、明日の授業予定と、それから明後日の出迎え文句について真面目に考え始めた。
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