微睡む動物

 

 不意に感じた足元の肌寒さに、深く眠りに満たされていた意識が醒める。気怠さの最中に、重い瞼を押し上げる。目の前にあるのは暗い天井と、カラカラになった喉の感触だった。
(水……)
 億劫ながらも身体を起こし、少し跳ねた後ろ髪を乱雑にとく。眠る前はきちんと掛かっていたはずの毛布は、いつの間にか地面にその半身を落としていた。
 シーツの上に手を置く。僅かに軋む音が立って、はたと思い隣を見遣る。横で眠る彼は、茨が眠りにつく前と変わらない姿勢で、規則正しい寝息を静かに鳴らしていた。そいつを暫し睨み付けて、それからそっとベッドを立った。ひたりと足を付ける時でさえ気を付けてしまうのは過去からの習慣に他ならない。いつまで経っても抜けないものに苛立ちながらも、どうせ起こした方が面倒だと思って静かに部屋を離れた。

 食器棚に向かう前に、シンクに置きっぱなしにしていたコップのことを思い出し、真っ直ぐそちらに足を運んだ。しかしシンクの中は空っぽで、それどころか磨かれて綺麗だった。ああそうかとすぐに自らの思考の鈍さに息をついて、今度こそ棚からコップを取り出した。
 蛇口を捻って水道水を貯めていく。透明なグラスの中に水滴が落ちる音でさえ、静寂な部屋に響いてしまう。ちらちらと背後を気にしながら、蛇口を絞った。
 細く落として、やっと溜まりきった水を呷る。渇いた喉に通っていく感覚が鮮明だ。思考が段々と覚醒していく中で、やはり後ろの部屋で立つ静かな寝息が気になった。
 コップをシンクに置いて、踵を返す。ベッドの上では、相変わらず乱れない男が眠っている。先ほどからは寝返りを打って向きが変わっているがそれだけだ。茨の抜け出した空間に、弓弦の薄い手のひらがある。
昔なら、誰かが目の前に立っているのに目を覚まさないなんて有り得なかった。水を飲むだけでも、随分と気を遣わなければならなかったのに、今はその必要すら無さそうだ。すっかり腑抜けてしまった嘗ての憧憬を見下ろして、無意識に詰めていた呼吸を吐いた。
 このまま弓弦の手を退けて入り込む気は起きず、ベッドの横に膝をついて清潔なシーツに腕を乗せる。黙って、静かな呼吸音だけの部屋に耳を澄ませる。外では車のエンジン音が僅かに聴こえる。ここにあるのは二人分の呼吸だけだ。
 緩くシーツを握る手の薄っぺらさに苛立って、それを抓ろうと手を伸ばす。しかし、触れる直前で引っ込めてしまった。
昔はもっと、簡単だった。触るのも、話すのも、隣で眠るのさえも。今は『理由』がなければ、どれだって出来ない。それはひどくもどかしくて、苛々する。

 暫く目を閉じていると、小さく布擦れの音が聴こえた。薄目を開ければ、目の前に汚れのない爪があった。思わずぱちりと目を開けた。茨に向かって伸ばされた指先は、首を狙うでもなく、目を突くのでもなく、そっと髪の一房を掬って落ちた。
 愕然と固まっていると、ぼんやりと開いた薄紫色と目が合った。
「……だから、乾かして寝なさいと言いましたのに」
「え……?」
 白いシーツに落ちた似た色の指が、鬱陶しげに毛布をひっかいた。柔らかい微睡みの中にある声が、知らないほど優しく、聞き慣れたような言葉を落として、それからまた瞼を下ろす。
 再度、鳴り始めた無音の寝息に、全身から力が抜ける心地だった。この男は、いつだってそうだった。こちらの考え方を知っていて、その上でぐちゃぐちゃな気持ちは知りもしないで、いとも簡単に画した筈の一線に触れる。
「……俺は言われてませんけど」
 届かせる気もないが、取り敢えず反論の句を述べて、それから白いその手を持ち上げて、作った空間に横たわる。頭の横に置いてやった手のひらを思うままに抓ると小さく呻く声がした。
「弓弦」
「ん……?」
「……おやすみ」
 温い体温を覚えるようにぎゅうと握って、手離した。仕返しにと短くなった髪を撫でれば、微睡んだままの目が茨を映した。
「おやすみなさい、茨」
 その声は随分はっきりとしていて、覗き込んだ瞳は昔から変わらない光を茨へ向けていた。それに気がついてしまえば、ああ俺はこいつに敵わないのだな、と悟ってしまった。
 自然と伸びてきた腕が茨の背中に回って、取っていた距離がまた消える。とん、とん、と一定のリズムで触れる手のひらに必死に意識を集中して、無防備さを誇示する憎たらしい寝顔を抱き寄せた。

 

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