どうでもいいからスマホを取らせろ

 

 鼻歌混じりにスキップしながら、長い海の廊下を駆ける。ステップを踏んで一回転。小さく悲鳴が聞こえて道が開く。あは、と笑い声が漏れた。
 フロイドは身軽な体操着で寮の帰途を飛び跳ねていた。これから、スカラビア寮でバスケットボール部による合宿擬きが執り行われる事になっている。というのも、他ならぬフロイドが寮長へ直々に掛け合った結果であり、本日発生する予定の”面白い事”に心躍らせていた。そんな事情を知らない周囲の寮生達は恐れ戦き、とばっちりが来ないように壁に張り付いている。それにも気が付かないで、広い廊下を邁進していた。
 そんな日になぜ自室へ引き返しているのかと言えば、浮ついた心象のまま準備をしたせいで、うっかり自室にスマホを置いてきてしまうというミスをした事が原因である。ついでに、今朝伝えてはいるが改めてジェイドへ自慢しようと思ってはしゃいでいた。
 ジャミルに教わった回転で気分を高揚させている内に部屋が見えてきた。鼻歌から本格的な歌に切り替えるべく口を開いて息を吸った。
「――うっ、ぐ」
 それが吐き出される事はなく、フロイドは大きく吸った息を飲み込んで噎せる。それから遅れて口を押さえた。確かに自分達の部屋から、呻き声が聴こえてきた。それも間違いなくジェイドの物。一瞬、襲われている、という文字が過ったがすぐ否定する。流石に有り得ない。それなら、と考えて顔を顰める。あれか。溜まった性欲とやらを発散するやつか。フロイド自身も一人になる隙を見てやっているが棚に上げて、最悪、と胸中で悪態を吐く。兄弟のそういう行為は好き好んで見たい物ではない。ちょっとだけ自らの抜けた性質を恨み、しかし九割九分を迂闊なジェイドに押し付ける。気分屋の自分が帰ってくる可能性くらい見越しておいてほしいと無茶を思いつつ、仕方なく扉に手を置く。そのままノックをしようと腕を引いた。
「やめ――」
「うわ、暴れ――」
 思わず表情を消して動きも停止した。二人いる。そして、明らかに争っている。中途半端に上げていた腕を下ろして、思考する。声を聞く限りでは、今現在襲われている側なのはジェイドの声だった。もう一人は、良く分からなかった。正確に言えば聞き覚えがあったが考えたくなかった。
 暫くそのまま思い悩んでいたが、ふっと迷う事に飽きて、いっそ躊躇なく扉を押した。しかし、確り音は立てずに、あちら側からは気付かれない程度に開く。
「……っ!?」
 そして、飛び上がりそうになった。叫び出す喉を無理くり抑え込んで口を両手で覆う。傍から見たら事件現場の第一発見者と思われる程度には真っ青になっていた。
 ――アズールがジェイドを押し倒している!
 改めて状況を脳の中に留めつつ叫ぶと、余計に混乱した。何だろうか、この状況は。なぜか頭が働かない。理解を拒んでいるのだと分かっているが気付かない振りをする。それでも野生としての性なのか、冷静に二人の状態を観察する。ベッドに乗り上げた二人が取っ組み合っているように見える。両手を掴み合って、相互に押し合っている。現状としてはアズールが優勢で、ジェイドは殆ど背中をシーツにくっつけた状態だ。
 止まっていた脳が再起してきたら、助けに行くべきかもしれないという考えが頭を擡げた。一瞬聞こえた会話では、ジェイドが嫌がっているようだった。しかしアズールが襲い掛かる場合、大抵はジェイドに非がある。恐らく見て見ぬふりをするのが最適解である筈だ、と答えを出して、一歩下がった。
「嫌ですっ! やめて下さい、アズール……!」
「ああもう……! いい加減に諦めて、大人しくしたらどうなんです!」
 いや違うかもしれない。掌を返して思い直し、取っ手に手を掛ける。例えジェイドが悪かろうとも、涙声になるまでの事をする必要はあるのか。あるのかもしれないが、とりあえず今の気分的にはジェイドの味方をしよう。今日に限っては部活動の合宿という名目があるので、一緒に怒られる事もない。そう思い隙間から中を覗き込んで、思い留まった。
 押し合いへし合いの上半身とは別に、うっかり足元に目を遣って後悔する。脚は絡み合って、互いを逃がさんとしていた。ふと嫌な考えが浮かぶ。自分の兄弟と幼馴染は出来ているのでは。楽しみにしていた時間が色褪せていくのを感じた。今日は絶対にこの事が頭から離れないであろう事が決定した。
 しかし、それでも言動を見る限りでは、未だジェイドがアズールに襲われかけているだけの可能性が捨てきれない。それにスマホも取れていない。今日だけはどうしても欲しい事情があった。折角の合宿で写真の一つも撮れないなんてつまらない。面白い物が撮れたら、二人にも共有したいと思っていた。つい先刻までの話ではあるが。
 仕方なく隙間から観察を続ける。ジェイドに馬乗りになったアズールが体重を掛け、遂にジェイドの背中がベッドに付いた。
「はあ、やった、僕の勝ちだ! ほらジェイド、観念しろ!」
「うっうっ……嫌です、僕、こんなっ……! 無理矢理なんて……!」
 真に迫った声色に反応して、思わず本当に扉を開けてしまいそうになったが堪える。あれはウソ泣きだ。というか、あの片割れが本気で泣いた所なんて見た事が無い。
「何が無理矢理ですか。二人で決めた事でしょう」
「貴方が力に物を言わせるタイプだとは思いませんでした……ああ、僕はこのままアズールに初めてを奪われてしまうんですね。しくしく」
「お前相手ならこの方が早いんですよ」
 初めてを奪うのは否定しないのかよ。脳内で言いながら、どんどん気持ちが落ち込むのを感じる。先の嫌な考えは恐らく正解だ。別に二人がくっついている事自体は一向に構わない。構わないが、それを自分のいない所で、何も言ってこないままでというのが嫌だった。これでは仲間外れみたいな物だ。腹いせに写真の一枚でも撮ってやろうとして、スマホがこの部屋の中に閉じ込められている事を思い出した。
「でも、アズール。本当に貴方、そちら側で良いんですか?」
「は? どういう意味です?」
「怒らないで。僕は貴方のために言っているんですよ。だって、もし失敗してしまったら可哀想じゃありませんか」
「はぁ、そうですか。まさかこの僕が、何の下調べも無しに挑んでいるとでも?」
 あ。と思わず声を上げそうになった。二人が無為な争いを繰り広げているのは、普段整ったベッドの上だ。その隣のベッドヘッドに、探し物が繋がれていた。充電中のスマホは恐らく満タンを訴えている。今すぐにでも取りに行きたいが、今、この空間に入りたくなかった。別に気まずくなるのが嫌なのではなく、後で思いっきり揶揄ってやりたかったからである。
「そうは思っていませんよ。ただ……それでも解決できない事はあると思いまして。物理的な問題、とか」
「……お前、それ、僕が不能だと言いたいのか?」
「ふふふ」
「ああ……そうですか、そうですか。それなら心配は要りませんよ。この通り僕は健康ですから?」
 その言葉を聞いた瞬間にフロイドは仰け反って目を覆った。絶対に見たくない。どれだけ面白く大好きな二人が面白い事をしているとしても見たくない物はある。例えるなら、親の情事をうっかり見てしまっているかのような心持になる。見た事はないが。二人は親でもないが。
 部屋の中からがたん、ばたんと暴れる音がする。フロイドはぎゅっと目を瞑って、ばれないように元の位置に身体を落ち着ける。
「変態じゃないですか! 離して下さい!」
「どの口が言うんだ! さっきからお前が脚で……とにかく、これはお前のせいですよ!」
「ええ、少しくらい力が抜けるかと思って。ですが、全く反応なさらないので……駄目な方なのかと思いました」
「そっちの方が卑怯じゃないですか。いった! 背中を蹴るな!」
 地鳴りに近い物音が響き渡っている。二人が争ったらまあこうなるかと冷静に考えて、そっと扉を閉じる。恐らく、もうフロイドのスマホは無事ではない。どこか穏やかな気持ちになって、ふ、と微笑んだ。
 あいつら絶対絞める。
 そして、その日の合宿練でのフロイドの活躍は後に伝説となった。

 

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