甘党

 

 ウィンターホリデー期間中は、普段の喧騒など陰もない程に閑静で、深海によく似ている。そして何より暇である。何か長期休暇らしき事をしようにも、気付けば結局いつもと変わらない時間を送っている。それぞれの趣味、勉強、仕事。行動範囲が学園内に限られるものだから仕方がない。
 今日はその内の”仕事”、ラウンジで出すメニュー案を出し合う事にしていた。仕事とは言っても、いつも通りに三人で顔を突き合わせて雑談交じりに話し合い、食堂で試作品を生産するだけだ。
 大食堂の机の一つには、既に新しいケーキやプティングなどのデザートが並んでいる。キッチンでは鼻歌混じりに生クリームのボウルを掻き混ぜるフロイドがステップを踏んでいて、アズールはスイーツを一口ずつ口に入れて品評している。ジェイドはそれを交互に見つつにこにこしていた。
「今日はオレ、調子いいかも~」
「美味……いや、でも甘すぎるな……フルーツを乗せてみるか?」
 二人の呟きに頷きながら、ジェイドはカウンターに陳列された果物に視線を向ける。楽し気に歌うフロイドの背後に仕入れたばかりの瑞々しいカットフルーツが小皿に分けて並べられている。ちらとアズールの試食するケーキを見る。
「柑橘類がいいでしょうか」
「悪くないでしょうね。ただ、それだと少し平凡すぎませんか? すぐに飽きられるメニューでは意味がない」
「なるほど……フロイドはどう思います?」
「んえ? あー、そのチョコケーキ?」
 キッチンの方へ近づいて問いかけると、フロイドが歌を中断して二人の方を覗く様に首を伸ばした。それから「ん~」と思考し、きょろきょろ厨房内を見回した。
「あ、アレは? 口ん中がパチパチする飴」
「面白そうですね」
「甘すぎるからフルーツを乗せるんですよ」
 笑顔で提案するフロイドに、ジェイドもまた笑顔で返すと、呆れた声がばさりと切り捨てる。フロイドは不満気に口をとがらせ、ボウルを乱雑にがしゃがしゃ混ぜた。
「とりあえず試してみます? 在庫がラウンジの方にあったはずですから」
 その不機嫌を察してジェイドが問うと、伏せていたフロイドの目が輝く。
「やろ~! オレ取ってくる!」
 一気に初めの機嫌を取り戻し、フロイドはホイッパーをシンクへ放り出した。緩い生クリームが軽く飛び散って、「フロイド!」とスプーンを置いたアズールの怒号が飛ぶ。しかし彼は意にも介さず、ボウルも同じように放り出そうとした。
「――あっ」
 適当に置こうとした、雑な行動が悪かった。クリームでべたついていた手のひらの上を、銀のボウルは見事に滑った。咄嗟に拾おうと伸ばした手の甲は、必要以上に力が入ってボウルの底を上へ押し出した。カン、と軽い音を立ててボウルは宙を舞った。フロイドは口を開けてそれを見上げ、くるくる回るボウルから飛び散るクリームを眺め、遠心力について考えた。同じく見上げていたジェイドは後片付けの事が脳内を駆け巡り、そしてふと、自らの真上にボウルの口がある事に気が付いた。しかし、自らが落下地点に置かれていると理解した時には手遅れであった。
「うぶっ」
 カラン、カランと軽い音を鳴らして、白いクリームを床に垂らしながらボウルは足元を転がった。まだ緩かった生クリームが、ジェイドの翠色からぽたぽた落ちる。口を開けていたフロイドは、生クリームの降り掛かった顔を呻きながら拭う兄弟を見て、それからゆっくり頭を掻いた。
「ごめぇん、ジェイド」
 目元を拭い、甘えるような笑顔を見せる兄弟を見たジェイドは、面白そうにくすりと笑う。それから、首肯しかけたところで、深い深い溜息が遮った。
「何をしているんだ、お前は! ああもう、他の食材は駄目になっていないだろうな!?」
「そっち?」
 転がるボウルを拾い上げ、苛立たしげにシンクへ置く。叱られたばかりのフロイドは半笑いでそれを見て、作りかけのムースを置いたまま逃げるようにキッチンから出た。
「おい、フロイド! どうするんです、このゼラチ……」
 逃げ出した犯人を追い掛けて、アズールもキッチンを出る。素早く兄弟の背中に隠れた彼に、ふやけたゼラチンの小皿を片手に抗議し掛けたところで、ぴたりと動きが止まった。不自然にも言葉が途切れたアズールに、笑いながら隠れていたフロイドもクリーム塗れの肩から顔を出す。
「……なに?」
 思わず零れたのは、そんな呆れた疑問符だった。突然ゼラチンを片手に固まって、中途半端に開いた口が塞がっていない。ゼラチンで固められたの、とでも言ってやろうかと一瞬過ったが止めて、答えを求めジェイドを見る。目が合ったジェイドも、不思議そうにフロイドを見ていた。
「どうしたんです? 急に固まって……もしかしてゼラチンを使った冗談ですか?」
 あ、取られた。フロイドは内心で呟いた。するとアズールはやっと口を閉じて、二人を睨みながら机に寄りゼラチンを置いた。二人してその様子を目で追っていると、唐突に彼の手がフロイドの肩を掴んだ。そして手がジェイドの肩から引き剥がされる。当然、抗議しようとアズールを睨んだところで、フロイドは急に気が付いた。
「アズール?」
 彼はべたべたになっているであろうジェイドの腕を掴む。目を丸くした彼は引っ張られて、アズールの背後に収められる。それをげんなりとしながら見送ったフロイドは、どこまでも落ちていく自身の機嫌に舌打ちをする。それから机に並んだ食べかけの試作品に目を遣った。たぶん、これは駄目になるだろう。
「ねー、アズールにそれあげるから、これちょうだい」
「えっ? あげる、とは……?」
 困惑する片割れをよそに、幾つか手を付けていない物を適当に持つ。アズールが眉間に皺を寄せて小さく頷くのを見るや否や走って食堂を出て、真っ直ぐにオンボロ寮へ向かった。自らの下がった機嫌を直すには、甲斐ある奴を弄るのが一番だと知っている。知りたくなかった情報について、無理矢理共有してやる事にした。

 走り去った自らの片割れを呆然と見送ってから、目の前にある銀色の旋毛を見下ろす。掴まれていた腕が離され、少々痛むそこを擦った。
「ふふふ。僕、プレゼントにされてしまいましたね」
 フロイドの言葉を思い出して、妙な空気を壊すべく笑う。すると目の前の肩は予想に反してぴくりと跳ねて、それからじろりと睨まれる。その頬が赤くなっている事に気が付いて、おやと首を傾げた。
 アズールは長く、細い息を吐き出した。それから緩慢に体を反転させ、ジェイドに向き直る。妙に熱っぽい目と合って、ジェイドはさらに首を傾げる。暫し続いた空気に耐えられず、またくすりと笑う。
「食べてみます?」
「……お前」
「案外、美味しいかもしれませんよ。今日のフロイドは調子が良いと言っていましたし」
 言いながら、視線を合わせるように腰を折る。クリームが乗った首元を晒すようにシャツの襟を緩める。いつも通りの叱責か、冷めた言動が返されると予想して笑う準備をしていると、不意に緩めたばかりの襟が掴まれた。何かを言う暇もなく引っ張られた首に、鋭い痛みが走る。反射的に押し返すと、温い感触が噛み痕を舐めた。
「な、……急に、何を?」
 どうにか押し返し、退くとよろけて机にぶつかった。空になったコップがぱたりと倒れる。改めて目を合わせたら、引き絞られた瞳孔がそこにあって、ぶわりと全身に熱が回る。その目は、昼間から公共の場で、見るものではなかった。
「なにが、急に、ですか。散々煽っておいて」
 負けず劣らず熱いアズールの手が、遅れて赤くなったジェイドの頬に伸びる。その指先がべたつく生クリームを掬う。丁寧な動作がくすぐったくて身を捩ると、慣れた様子で腰を掴まれ、そこでようやく得心した。くつくつと喉の奥で笑うと、ただでさえ皺の寄っていた眉間がさらに深くなる。
「なに笑ってるんです」
「貴方こそ、一体なにを想像したんですか?」
 頬を拭う手に触れながら問えば、目の前で歯軋りするのが見えた。可笑しくて口角が上がるのを制御していると、クリームを逃れていたネクタイが引っ張られる。別の手は背後の机に置かれていて逃げ場がなく、素直に身を屈める。
「思い出させてあげましょうか?」
 低く囁いて、唇を舌が這う。眇めた熱い空色に映った自分の顔に、震えながら笑った。
「カロリーオーバーでは?」
「これくらい、明日調整すればいい。そもそも試食の予定でしたから調整しています」
 また首筋に吸い付いて、甘い肌を舐めとられる。全く以て普通の日常、その一日でしかなかったのに、と思うとこんな状況でも笑えてしまう。やはりフロイドは飽きないなと感心し、部屋の外では見慣れないアズールの姿に目を細めた。もう一度、今度は肩口に噛みつかれたところで、やっとアズールの肩を掴んで制止した。
「アズール、すみません。揶揄いすぎてしまいました」
「それは随分と今更ですね」
「まあまあ。僕も後片付けを手伝いますから、まずはシャワーを……」
 珍しく長く悪戯を仕掛けてくるアズールを宥めるべく、素直に謝りながらそっと肩を押すと、逆に押し返された。急な事でバランスが崩れて床に尻餅を付いてしまい、普段では有り得ない状況に苦笑しつつ立ち上がろうとした膝の上にアズールが乗った。
「え」
 視界が回った。そう思った時には、クリームだらけになった床ではなく、柔らかいシーツの上に倒れていた。ぽとりとシーツに投げ捨てられたペンと、真上から降ってくる熱に、ようやく、本当に現状を理解した。
「物好きな人ですねえ……」
「……こっちは甘いものの口で来てるんですよ」
「ふ、ふふっ、それは失礼しました」
 明け透けな物言いに思わず笑うと、機嫌悪く顔を歪めたアズールが眼鏡を外して近付いた。真上に設置されている時計を確認しようとしたが、止めて、腹をすかせた人魚の首へ腕を伸ばす事にした。

 

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