潮風という概念は、陸に上がって少し経過した時分に知った概念だ。頬に触れるそれがべたついてしまう事は、割と最近に知った事で、今も若干の不快感と共に息を吐いている。
「あはっ、オレいちばーん!」
照り付ける太陽光を反射する、鏡面の海が波打った。同時に背後から軽い足音が鳴って近寄って、僕の真横を通り抜ける。ぶわりと吹いた風は彼の魔法だろう。フロイドらしい乱暴で複雑な魔力を手で払い除けながら、「危ないですよ!」と声を上げる。もちろん、彼は一笑に付して、光輝く海の中へとその身を投じた。
バシャーン、と立ち上った水飛沫に眉間を押さえる。潮でべたついた眼鏡はとうに外している。髪はいつも以上にうねっていて鬱陶しい。
「うーわ、冷てぇー! あはは!」
「フロイドったら……風邪を引いてしまいますよ」
さくさく、砂を丁寧に踏む音がして、はしゃぐフロイドが僕の方を見る。正確には隣のジェイドの方を見遣って、大丈夫だって、と上機嫌にも手を上げている。僕の忠告は無視した癖に、と思いつつボタンを外していく。フロイドは面倒だったのか制服を着たまま遊泳しているが、ジェイドの言う通り、そのままでは人間の身体は風邪を引く。ぷちぷちと三年間で随分手慣れた手つきで外していると、中途半端にシャツを脱ぎかけたジェイドが裾をまくってフロイドに近寄っていくのが見えた。その時点でやや嫌な予想が立っていた。
「ほら、フロイド。先に服を脱いで……うわっ!」
「ジェイドも一緒に泳ごー!」
差し伸べたジェイドの手は、その手首ごと掴まれて、海の方へと引っ張り込まれた。何故か油断していたらしく、彼はいとも簡単に海へと顔から突っ込んで、すぐさま咳き込みながら起き上がった。
「げほっ、塩辛い、ですね……」
「何やってるんですか、お前達は」
「アズールもやる? 人間の身体で入ったら超冷てーの!」
「やりませんよ」
シャツをぽいと砂浜に放って、まずはジェイドの襟首を掴む。「うっ」と小さく呻いた後でにこやかに睨まれた。それが常の彼らしくなくて笑えてしまう。後ろ側から手を回してボタンを外してやる最中、うっかり笑いの息を零すと、咎めるように名前を呼ばれた。
「いやすみません、まさかジェイドともあろうものが……というか人魚が海に落ちるなんて思わなかったので……ああ面白い!」
「そうですか、そんなに羨ましいのならどうぞこちらへ!」
「うわっ、やめろ!」
最後のボタンを穴に通す途中でぐるりと体を回して掴みかかってきた。その拍子にどうにかボタンが外れたようで、焼けない肌色が太陽に照らし出されている。微妙に視線の置き場を探しながら踏ん張っていると、「ああもう」と諦めたような声を上げてジェイドが腕を離した。
「こんな事をしている場合ではありませんね。早く戻らなくては」
「そう急ぐ事もないと思いますけど……まぁ、仕方ないですよね。僕達の力比べなんて時間の無駄ですから」
「フロイドと二人がかりでやっとですからね。貴方の馬鹿力……いえ、素晴らしい怪力は」
「言い直した意味あります?」
軽口をたたきながら、スラックスを脱ぎ捨てていく。太陽の下、砂浜の上で裸になるのは随分と熱くて、人間の肉体の不便さを感じてしまう。それからやっと海に足を進めて、ぱちんと泡が弾けるように、僕達の魔法が解けて、海に広がっていく。
「去年、腕相撲をやった時は寮生の腕が骨折し掛けて大変でしたね」
エメラルドグリーンの鱗を身にまとった、僕には見慣れた姿のジェイドが先程の続きとばかりに話す。こちらも慣れた六本足で水を掻いて浮き上がりながら、顰めた顔で頷いた。
「貴方の右腕に全体重を掛けて戦う彼の雄姿は、今でも覚えていますよ。素敵な光景でしたから……ふふふ」
「お前達もやっていましたけどね。僕の右腕に、両腕で」
「おや、勝ちましたよね?」
「フロイドとお前の全体重が掛かったら、そりゃあそうですよ」
以前に持ち上げた、兵器級の魔道具と遜色ない重さだった。そう思い付いたが黙っておく。これ以上噛み付かれたら本当にいくら時間があっても足りない。
「おい、フロイド。お前も早く服を……」
遠くに見えたフロイドは着衣のまま遠泳を始めていた。思わず絶句しつつ、その無駄な体力に感心してしまう。仕方ない、とジェイドに連れ戻させようと振り向いて、また絶句する。
「…………どこに行った!?」
一瞬、目を離した隙だった。そこにいた筈のジェイドが姿を消して、砂浜にはべしゃりと乗り上げた人魚の跡が付いている。慌てて砂浜に近寄って、予備に取っておいた魔法薬を探す。そして、そこに転がる空の瓶に、長い長い溜息を零した。
砂浜に腰掛けて、不穏に笑いながら遠泳を続けるフロイドと、崖の近くに自生していたらしいキノコをスケッチするジェイドを待つ。そんなところに自生するな、小魚もフロイドに付いて泳ぐな。愚痴っぽい思考を誤魔化すよう、ぼーっと空を見上げたら、燦燦と照り付ける強すぎる太陽の熱に溶かされてしまいそうだった。
「あっつ……」
三年目の夏、僕達は進路を決める前に一度帰郷する事になった。それが今日で、サマーホリデーの初日だ。正直に言えば、僕の進路は決まっている。経営の勉強を続けたいし、勉強と運営の両立が可能であるのは現時点でも証明している。進学を決めた僕の傍らで二人は奔放に、いいんじゃない、と笑って肯定した。僕は未だにその意味を考えあぐねているのだが、この様子を見ていると本当の意味で考えなしなのではないかと思ってしまう。
本当は、同じ道の先に二人がいると信じている。当然のように、夢をかなえる僕の隣で、いつも通りくすくすと顔を見合わせて笑っていると思っている。こうして自分勝手に、予定なんて無視して、自分の都合にだけ夢中になっている姿を見てもなお、僕はそれを信じている。いや、知っているのだろう。
ちらと背後の崖を見ると、先程から変わらない場所でスケッチを続けている背中が見えた。あいつは研究を続けたいと言い出すのではないかと思っているが、どうも僕達に追従する癖があるから少し心配だった。フロイドは好きな事を好きなようにするだろうと確信しているから、適当に手を一度離すだけでいい。
「ジェイド」
わざと小さく声を上げる。もちろん集中している彼は気付かないまま、不安定な場所に根付く菌糸類を熱心に見ている。その横顔は、僕は随分と好きだった。それに気が付いたのもここ最近の事ではあるが。
「お前、進路はどうするつもりですか」
触腕の一つが砂を触った。ジェイドからは、スケッチブックに鉛筆を走らせる音だけが返ってくる。
「まあ、僕が何か言わなくても、好きなようにするだろうとは思っていますよ。研究でも勉強でも、家業を継ぐのでも、好きにすればいい」
ばしゃん、とかなり遠くで水飛沫が上がった。フロイドがいつの間にか仲良くなったイルカに乗って遊んでいる。食うなよ、と胸中で思う。
「……どうせ、最後は僕の隣にいるんだから」
落とした言葉は、ジェイドに聞かせたいものではないから、潮風にさらわれるくらいでちょうど良かった。根付いた不安は、何年掛けて培われた信頼でも拭いきれないものがある。今日、実家へ戻ったら、彼らは将来の話をするのだろう。何日も猶予があったのに、未だに僕は準備が出来ていなかったらしく、楽しそうに遊んでいる二人を咎めきれずに、不安にぐらぐら煮詰まっている。こうして、言葉にしてでも形にしなければ、安心できないくらいに。
ぱしゃ、ぱしゃ、子供のように足で浅瀬を打つ。上がる飛沫はフロイドが打ち上げたものとは比べ物にならないくらいに小さい。どうか彼にとっての僕はこうでありませんように、だなんて殊勝な事を考えている自分が幼くて情けない。僕達の関係性に名前はないけれど、泡のように弾けて消えるほど脆い絆ではない事も、とうに自覚できているのに。
「アズール」
「……えっ、あぁ……終わったんですか」
急に呼ばれた名前に思わずびくりと反応してしまう。ジェイドはやや怪訝そうに僕を見て、それから隣に腰掛けた。人間の身体だった。
「申し訳ありません、見た事の無い品種だったもので……我を忘れてしまいました」
「なら、もう少し申し訳なさそうな顔をしてくれませんか?」
「ふふふ。楽しかったです」
晴れやかに笑う横顔を眺めて、またぐらりと不安が揺れる。波を揺らしていた触腕で、鱗の無い、白い彼の両脚に触る。ジェイドは珍しく驚いた顔でそれを見る。
「ジェイド、」
陸に残るんですか。研究を続けるんですか。それとも海に帰るから、今を惜しんでいるんですか。聞きたい言葉は一つも出てこないまま、縋る様に彼の足首にぎゅうと巻き付く。
「……僕、実はやりたいと思っている事があるんです」
ぱっと顔を上げてジェイドの方に視線をやる。彼はじっと巻き付いた触腕を見つめながら、真面目そうな面持ちでぽつりと零す。
「だから、貴方やフロイドと同じ進路には進めない。でも……」
ころりと彼はその頬を自らの膝に当てて、僕をわざとらしく見上げて、からっと笑った。昔にただ一度だけ見た、本物らしい笑顔に似ていた。
「『どうせ、最後には隣にいる』でしょう。僕達は」
「…………」
「ふふふ。僕、結構耳が良いんですよ」
八つ当たり気味に水面を打ち付けると、わ、と小さく笑いながら声を上げて退いた。その笑顔はいつまで経っても憎たらしくて、好きだった。
「ねえ、分かっていますよ。アズール」
「……何を?」
「ふふ。僕も同じ気持ちなんです。だから、魔法なんて使わなくても……」
浅黒い僕の首筋に白い指先を触れさせて、静かにその顔が近づく。誰よりずっと見慣れた筈の顔なのに、心音が跳ね上がって煩い。
その黄金色の瞳が、僕の顔を映している。覗き込んでいる。
「目を見れば、分かりますよ」
この三年間で、僕達は随分と知り合った。海の底で遊んだ記憶より、先へと踏み込み合った。この表情が何なのか、分からないほど希薄な付き合いでも鈍感でもない僕は、緊張に震えるジェイドの手を取る。
「何年掛かっても構いません、ジェイド。好きなようにすればいい。そういうお前と、一緒にいたい」
「……素直なアズールは気味が悪いですねぇ。ふふ」
「うるさいな。ほら……返事は?」
心の奥底まで見透かす彼の瞳には、機嫌良く口角の上がった僕が映っている。ジェイドはふっと眩しげに目を細めて、稚く笑った。
「ええ、もちろん。仰せのままに」
太陽熱のせいか、赤く染まった頬を手の甲で撫でる。どう言葉にすればいいのか分からなかったから、この焦げ付くような感情が伝わったのなら良かったと安堵する。好きだとか、愛しているだとか、僕達にはそもそも似合いもしない。
「で、将来は海の見える家に住むんでしょ? 遊びに行っていーい?」
「は? いや、別にそんな予定は……って」
当然のように返事をして、数秒の間を空けて、僕は目の前の海面から顔を出すフロイドと目が合った。
「フ、フロイド! いつからそこに……!」
反射的にくっついていたジェイドから離れる。彼も珍しく動揺したように膝を抱えて砂浜に逃げている。フロイドはそれを愉快気に見て、それから笑って言う。
「なぁんか、一応隠れて待ってたのに全然チューしねぇから飽きてさー」
「こんなところでするわけないだろ!?」
「えー、実家でする方がやべーじゃん」
「しないって言ってるだろう! ああもう……!」
眉間を揉んで息をつく。フロイドにはいつもペースを崩されてしまう。これだけは出会った頃から何も変わらない。はぁ、と溜息を吐き出して、ふと笑いがこみあげてくる。それが零れると、ジェイドもくすくすと笑って、フロイドが目を丸くした。
「本当、お前は自由ですよね、もう。どうせ駄目だと言っても遊びに来るんでしょう? 合鍵も作ってあげますよ、ねえ」
「ええ、もちろんですよ。大切な兄弟ですから。ああ、もう三人で住みます?」
「え、ウソ、冗談だって……え? あ? マジでチューすんなら言ってよ絶対見たくねーから!」
ばしゃん! と一際大きな水飛沫を上げて、いつの間にか人魚になっていたフロイドが海の中へ再び潜って消えた。箍が外れてしまったみたいに僕達は笑って、溢れた涙を拭う。
「ねぇジェイド、本当にしましょうか? 海の見える家」
「ふふふ、ええ。いっそフロイドを呼んで結婚式をするのもいいかもしれません」
「ああ、いいですね! それ! はは、今からフロイドの嫌そうな顔が目に浮かぶ」
浜辺に倒れ込んで笑うジェイドを両腕で起こして、ふと思いついてそのまま持ち上げる。ジェイドは驚いた様子で咄嗟に僕の首に腕を巻きつけ、そして僕の意図を解したようで、にやと笑った。
「結婚式の段取り、調べておきましょうか」
「僕がやりますよ。ああいえ、一緒に」
「ふふ……ああ、楽しい。貴方達といると本当に飽きない」
「こっちの台詞なんですが」
海面に触れたジェイドの身体が、ぶわりと鱗を纏って太陽を反射した。小魚たちが驚いて逃げ出す閑散とした空気の中、僕は随分軽くなった心でその体を抱きしめて、冗談に紛れる様に、楽しそうなその笑顔に口づけた。
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