ちゃぷん。つま先を出した海面が波打って円が広がる。水滴に濡れた指は月の灯りできらきら反射している。もう一度、指の先まで足を海に浸けていく。じわりと痛みがやってきて、少し呼吸を止めた。
「まだ痛えの?」
「大した事はありませんよ」
こてりと膝に頭を乗せた片割れが問いかける。事実を笑顔と共に伝えれば、黙って肩に体重が掛かる。膝を抱えたままで寄り掛かってきたそれは存外に重く、僅かに重心が傾いて砂浜に手を付いた。
「本当ですよ。もう傷は塞がっていますし……ね?」
「んー……」
唸りながらフロイドは自らのつま先を摘んでいる。怪我をした形跡だけは沢山あって、彼の破天荒な生活が顕著に見えた。海に遊ばせている自らの足を上げると、まっさらな肌に深く入った切り傷の痕跡が見えた。
「お揃いです」
「オレそんな馬鹿な怪我してねーし」
「おや、酷い言い草ですねえ」
ふやけてきた足を海から上げて、膝を引き寄せフロイドと同じように抱える。くっついた体温だけが温かく、夜の海は冷たかった。傷口は未だじくじく蝕むような痛みがあったが、実際最初に比べれば大した事もないと思える程度だった。隣を向けば、不貞腐れた顔の兄弟が塞がった傷口を睨んでいた。
「オレならそこまで切れなかったよ」
「人間の体は案外脆いんですよ」
顰めた顔が膝小僧に沈んだ。彼はそれきり黙ってしまって、波が返す音ばかりが響いていた。そのまま眠ってしまいそうなほど肩に掛かる体重が重くなる。ジェイドも体重を返したら膝に沈んだ頭が少しだけ呻いた。
体温を分け合って波の音を聞いていると、さくさく砂を踏む音が混じった。一定のリズムは崩れずに近付く。すぐに顔を後ろへ向ければ、箱と毛布を持った姿が見えた。
「遅くなりました。薬を作って貰っていたので時間が掛かって」
「ああ、ありがとうございます」
言いながら、二人の背中に毛布が掛かる。冷たい風を遮るそれは温かい。ジェイドの隣に膝を付いて、アズールは抱えていた箱を置く。開くと中に薬品と包帯が見えた。それらを精査するように持ち上げながら、彼は手を差し出す。
「傷口は洗ってますよね?」
「はい。既に塞がっているので意味は薄いかもしれませんが……」
「いいから、さっさと見せなさい」
足首を掴まれてバランスが少し崩れ、フロイドに体重を思いっきり乗せた。すると静かにしていた兄弟が背後で呻き、すぐさま押し返してくる。図らずもリクライニングのようになって思わず笑う。その間にも怪我をしたつま先はアズールの指に摘まれて、痛む傷口に容赦なく薬品を伸ばされた。笑い混じりに「痛いです」と文句を言うが、気遣った動作に変わる事はなく、淡々と包帯に包まれた。治療を終えた足を砂の上へ戻す動作だけは優しかった。
「大変お上手ですね。ハロウィーンの成果ですか?」
「下らない事を言ってないで大人しくしてろ。ほら、次はお前ですよ。フロイド」
「えー……擦り傷しかねーって。もう治ったあ」
今度は文句を垂れるフロイドの腕を掴んで、また薬をばさばさと掛けている。いつの間にか落ちていた毛布を再度、二人の肩に引っかける。掴んだところが砂まみれになっているが、それでも温かかった。
海は星空が映って美しい。揺らぐ星はまるで瞬いているように見えた。まさか、この美しい海の中に獰猛な生き物が居て、陸まで追い縋る貪欲な生き物が棲んでいるとは思えない。波打ち際で死んでいる鮫からそっと視線を外した。
また毛布がずれてきたので直そうと手を伸ばしたら、柔らかい感触に触れた。砂浜の上に落ちていたのは手だった。顔を上げると、怪訝な顔でジェイドを見返すアズールがいた。
「アズール?」
「何ですか。無いと風邪を引くでしょう」
毛布を自らの肩に掛けながら、溜息混じりに言葉を返される。しばし腕に巻かれた包帯を眺めていたフロイドも、反対側を引っ張って肩に掛けた。両肩に感じる体温と背中を覆う温もりで、冷たかった海が遠くなる。
「もう夜も遅いですから、帰った方が宜しいのでは?」
「はい? お前、その足でちゃんと歩けるんですか? 無理でしょうが」
「いえ……」
「もういいから寝よ、オレ超疲れたぁ」
眼鏡越しに睨まれて言葉に詰まると、包帯を巻いた腕が肩に回った。腰に腕を回し返すと、距離が縮まって更に血の匂いがする。フロイドは既に寝息を上げ始めている。ざぱりと波を打ち返す音がそれを掻き消していく。ちらとアズールの方へ顔を向けると、目が合った。
「まだ言いたい事が?」
「……いいえ。貴方の気紛れというのも面白いものだと思っただけですよ」
「はあ?」
ジェイドとフロイドと同じく、アズールもいつの間にか膝を抱える姿勢でいた。呆れたような、理解できないような顔でジェイドを見上げている。
「なにが?」
「貴方は怪我もしていないのに、わざわざ一緒に残らなくても」
「お前を運べと言っているんですか? 嫌ですよ、というか無理です。魔法を使えという話なら対価を要求します」
「……そうですか」
膝を引き寄せて、額をくっ付ける。空いた右手でアズールの手を握ったら、当たり前に握り返された。静かになった空間に三人分の呼吸と小さな波の音だけが聴こえている。
「ありがとうございます」
「何ですか、急に。明日は何が降るんでしょうね」
「雪でしょうか」
「ああ……確かに寒いですからね」
握った手が一度離れて、指同士を絡ませるように握り直された。腕がくっ付いて、脇腹まで触れて、温い呼吸が溢れる。
「早く寝なさい」
「すみません。目が冴えてしまいました」
「……はあ」
少し顔を上げる。アズールの顔が寒さで赤くなっている。笑うと、握っていた手が強く絞められて痛い。
「僕は寝ます。おやすみなさい」
「つれない事を言わないで。あの鮫の利用方法について、提案があるのですが」
「やめろ、寝られなくなります」
「新鮮なうちに持ち帰って保存しませんか?」
「お前達で食べるなら構いませんけど、ラウンジには持ってくるなよ」
静かなトーンで交わされる会話が心地良いのか、肩に乗ったフロイドの重みが増していく。アズールの声が脳に響いて、だんだん眠たくなってくる。アズールはまた毛布を掛け直して、空いた手でジェイドの足先を摩った。
「後から部屋に戻っていれば良かった、と言われても知りませんよ」
「だから……無理でしょう。一人で戻れとでも言うんですか?」
「ふふ」
「馬鹿ですね」
ぱしゃりと水がつま先を撫でて、それきり頭は膝に埋まって上がらなくなった。
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