扉が開いた先

 

 フローリングの数センチ上を滑ってドアが閉じていく。小さな風音すらも耳障りなくらいに増幅されて届く気がした。最後の隙間だけ、白い靴下が蹴って押す。外界から隔絶された、その感覚で心音が上がる。蹴り上げた脚を丁寧に、上品に下ろして、ぴくりともしなかった彼の唇が緩やかに笑みを作った。
「……、茨」
 その薄い唇が開いて、躊躇うような空白のあと、柔らかく名前を呼んだ。それだけで、数分前まで考えていたあれやこれを突然に失してしまった。
「弓弦」
 返事を待って手元に置いていたスマートフォンも、からからになった喉を潤していた脆いペットボトルも、すべて机に放置したまま彼の名前を呼び返す。俺の声に彼は微笑んだまま、伸ばした手を避けることもせずに、そこにいた。飛びつくようにふらりと引き寄せられる。手入れを怠ったわけでもないのに、いつの間にかささくれだっているこの手が、傷ひとつ残されていない頬に触れる。華奢で綺麗な指先が、俺の手に重なった。
 彫像に似て固まった微笑を眺めたまま、彼が閉じた扉を蹴って確かめて、それからやっとキスを交わした。

 それがいつからだったのか、あまり覚えてはいない。確かなのは、ずっと不安定な間柄だった男が、扉を閉じたその時だけ、恋人のような何かになるという事だけだ。俺の部屋が空き、弓弦の仕事が空いた夜。その時だけ、こうして彼は俺の所へ訪れる。告白されたわけではない。己の思いを伝えた事もない。ただ、好意を自覚した時点で負けていた。
 何をするわけでもなく、ベッドに並んで座っている現状に、異様さとか恥ずかしさとかを感じる時期は過ぎている。今はただわざとらしく触れた指を絡ませて、紫色がこちらを向くのを待っている。
 深夜番組を垂れ流すテレビの液晶に照らし出された横顔は綺麗だ。隙の無い眼はきっと俺の視線にも気付いているのだろう。その上で、彼は感心をテレビの中で踊るアイドルに向けている。
「……弓弦、」
 絡んだ指を軽く引っ張って、ようやく彼はこちらを見た。
 最初はこんなバカな真似はしなかった。しかし何度も同じ時間を過ごして、悟った事がある。彼は俺を利用して、何かを得ようとしている。それが何かまでは分からない。弱味やら情報、はたまた精神的な癒しだろうか。単にこちらを揶揄っているだけなのか。実際のところがどれだろうと、俺はそいつを利用し返すことにしていた。
 簡単に腕の中へ収まってくれた、いつかの教官、今は何と呼べばいいのか分からない、恋人のような何かを見つめる。すぐに睨み返すみたいに目が合わさって、ちらりとも揺らがない色彩が眩しい。誤魔化すように瞼に唇を寄せると、視線が切れた。
「くすぐったいですよ」
 ふ、と力が抜けるように笑う。優し気な目元が、鋭利さなど隠し持った事がないと言わんばかりの淡い色が、とてつもなく憎らしい。それを既に愛している自らがあまりに滑稽で、目も当てられない。
 この時間が嘘でもいいだなんて考え始めた自分が、可哀想で堪らない。
「茨、もう寝るのですか?」
 目を閉じて思考している姿を眠気だと捉えたらしい彼が、すっと顔を覗き込む。否定の句を述べようとして、迷った俺に優しく微笑みかける。凍てついた微笑みが、まるで本物みたいに見える。
「もう少し、話がしたかったのですが……」
「うそつけ」
 反射的に零れた悪態に、一瞬後悔した。ただ頷いていれば、それで俺は満たされたのに。それでも、言い返したことで普段の調子に口をゆがめた顔を見れば、なんだか別の部分が満たされた心地がしている。
「どうせなら、もっと上手くやってくれません?」
「わたくしの何が下手だと?」
「……キス」
 言うや否や、顔ごと掴む勢いで頬を挟まれ、口付けられた。勢い余って唇が切れるところだったが、なんだかそれでも心が満たされる気がした。扉を閉じて、いつもと違う笑顔で接されるよりもよっぽど良い。負けず嫌いの瞳がじっとこちらを見る。本当は別に上手いも下手も分からない。比較対象がどこにもないのだから仕方がない。踏み込もうとしては二の足を踏んで、変に誤魔化してこうなってを繰り返している。
 どうして、を聞いたら、今の幸福が終わる事は明白だった。昔からこの男のことは理解できないけれど、それくらいは分かっていた。きっと弓弦は何も言わない俺に、一種の甘えを以て続けているだと思うのだ。

 無様にも夜を惜しんで、本来は不要な仕事を引っ張り出して机に向かう。弓弦は隣で、最近趣味になったという読書をしている。趣味も出来て、やりたい事も見つかって、それで一体何が欠如してしまったのか。俺には皆目見当もつかない。僅かに寄り掛かった体温を、今だけは拒絶しなくていい。それだけが全てだ。
「……何読んでるんです?」
「白鳥様からお勧めしていただいた恋愛小説です。……読み終えたら貸しましょうか?」
「結構です」
 苦々しくもゆがめた顔を見て、品良く、しかし楽しそうに笑う。これは本当にあの戦場を共にした男だろうか。恋愛どころか物語に没頭した事もない癖に、よくもまあ楽しそうにできるものだ。
 何が悔しい訳でも無いのに、なんとなく舌打ちして目を逸らす。すると彼は本を閉じて、手を握った。
「…………あつ」
 ようやく絞った言葉はそれだけだった。
 今し方確信したのは、この男が恋を知らないという事実。もし知っていたのならこいつはやはり悪魔だ。好きになってはいけないくせに、こうして軽々しく心に触れる。笑顔も、怒った顔も、暴言ですらも嫌いだとは言えないのに。
「そろそろ寝ますか?」
 俺の気も思いも知る気がない弓弦は、なんでもないような顔でそう問いかけた。それは、つまりこの時間の終わりを示している。悔しい事に、俺にとっては明日を考えるのも嫌になるほど、この熱が惜しかった。
 薄い手を握り返して、冷えた己の手で体温を奪う。この薄っぺらいお綺麗な手がどこまでも強い事をよく知っている。無為に消費されていくくらいなら、どうせなら、と考えた事がないとは言えない。それでも、やっとの思いで、俺は手を離した。弓弦は微笑みを崩さないまま、折角離した手を繋いで、もう一度キスをした。

「では、おやすみなさい。茨」
 扉の前に立って、弓弦が言う。何も言えない俺に、彼もまた何も言わず、その手がドアノブを下ろした。静かな夜に、扉を開ける風の音が響いている。
 ゆっくりと、扉が開いていく。スローモーションみたいに見えた。伸びた背筋がこちらを向く。俺は咄嗟に立ち上がる。音もなく進むつま先が、部屋を一歩出ていった。
「弓弦!」
 途端に正気に戻った気がした。俺の手は彼の腕を必死に掴んで引き留めて、振り払われる前にもう片方の腕を胴に回した。廊下で、まるで抱き締めている体勢を取るそれ自体が正気じゃない事は知っている。
「離しなさい」
 首を傾けて、弓弦の目が今度こそ本当にこちらを睨み付ける。冷たい色に心臓が冷えていく。甘い幻想を追う愚行を責め立てられているようだった。
「返事をくれませんか」
「……何の?」
 掴んでいた手をぱっと振り払われた。そのまま縋る様に両腕を腹に回して、馬鹿みたいに、俺は言った。
「あんたが好きだって」
 どうせなら、もっと上手くやってくれたなら。もしくはもっと俺が愚鈍なら。期待して不安になって、追い縋ってついには全部言わされるなんて最低な結末には至らなかっただろう。そうして俺は鼻で笑われて、馬鹿にされて終いだ。
「……ま、」
 そう思っていた。
「少しだけ、待ってくれませんか……」
「……はい?」
 結末を受け入れる準備をしていた心が帰ってきた。それから、しんと広がる静寂と、目の前にある赤い頬の意味を考え始めた。しかしながら、一度止まった思考というのは中々戻る物でもないらしい。何周しても、思考が同じ地点に着陸するバグを抱えた。
「……弓弦って俺の事好きなの?」
 だから少し、考えなしになった口が滑らせて、見事鳩尾に入った肘鉄に蹲る羽目になってしまった。それから本当に静かになった部屋の中で、凍てついた微笑みだとかわざとらしい仕草の意味が、ようやく正しく理解できた気がした。
 まるで幸せになれるとは思えない関係が、ひっくり返った視界と一緒に覆るとは思いもしなかった。どこまでも不器用な、恋に下手くそなかつての教官。一体明日からどう接するのが正解なのか迷いに迷って、まあ自分らしくやりたいようにすればいいと単純明快な結論に達した。それならもっと早くそうすればよかったのだが、いかんせん相手も俺も、恋という文字すら最近覚えたのだから仕方がない。
 開いたままの扉が、宙に浮いた溜息のせいか、からんと小さく揺れた。

 

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