それは、久々の快晴だった。雨季が過ぎ去り抜ける様な青空の下、休日前の気も抜ける日に、苦手な飛行術が珍しく成功した。得意な魔法薬学ではクルーウェルに賞賛を受け、魔法史では偶然にも予習を行っていた部分が登場したおかげでトレインにまで感心された。シフトに入る前に立ち寄った植物園では、長らく萎れていた花が美しく咲き誇っていて、近くにいたルークとトレイに共有し楽しい時を過ごした。機嫌良くラウンジへ向かえば、なかなか珍しい程度に機嫌の良いフロイドと出会った。二人揃って調子良く給仕をしていたら、有用な情報を小耳に挟んだ。仕事終わりに入手した駒を伝えてやろうとVIPルームへ行くと、アズールから久方ぶりの誘いを受けた。もちろん、喜んで了承した。
それは、とても良い日であった。笑顔を作る必要もないくらいには、良い日だった。
そう、だからこそ、殺すには良い日だと思った。
待機を指示する寮長の言葉を断り、行きたい所があると言って二人だけの部屋を出る。営業時間をとうに過ぎたモストロ・ラウンジは随分と閑静だ。レジ締め担当のフロイドは、きっちり仕事を済ませた上で先に戻っている。いつもこうなら、と思わないでもないが、彼のパーソナリティなのだから好意的に受け入れる事にしている。たった一つの足音を鳴らしてホールを抜け、大扉を押し開ける。比較的新しいこの寮の扉は静かに開く。廊下に出ると、自室へ戻っていく寮生達の姿がちらほらと見える。すれ違いざまに挨拶を交わしながら、本校舎へと向かった。
鏡舎にはいくらか人が居た。彼らは自らの寮へと繋がる鏡を潜って数を減らしていく。それとは反対に、ジェイドは流れに逆らって校舎に立ち入る。
夕方の廊下は少し肌寒い。隙間風が入り込むせいだろうか。ジェイド達、北の海出身者にとっては過ごしやすいくらいだが、人間には嫌な気候だろうと思う。茜色が差し込む長い路を一人で歩き、本日の三限目でジェイドのクラスが使用した魔法薬学室に辿り着いた。使用中の札が無い事を確認し、一応ノックをする。しん、と静謐が広がって、遠慮なく扉を引いた。
教室の中には誰もおらず、いつも誰かが何かを煮ている大釜も綺麗さっぱり片付けられている。ただし、机の上には誰かの鞄が置かれている。持ち主が戻る前にとジェイドは真っ直ぐに棚へと向かう。それから、彼が少し腕を伸ばす程度の高さに置いてあった薬瓶を手に取る。透明な液体を閉じ込めた瓶を少し揺らす。確認したラベルには、間違いなく作成者の欄にジェイド・リーチと記されている。それをポケットに仕舞って、丁寧に棚を閉じ、教室を出た。
寮に戻ると、ラウンジの前で不機嫌げに足を鳴らす支配人の姿があった。居残る寮生に遠巻きにされる彼が面白くて笑っていると、眼鏡越しに鋭く睨まれてしまった。
「遅い! どこに行っていたんだ!」
「すみません。ちょっと野暮用で」
「どうせ植物園だろう。こんな時に……僕の手を煩わせるなよ」
乱雑に腕を握られる。蛸の人魚らしく凄まじい握力のせいで痛いが億尾にも出さず笑いながら、舌打ち交じりに引っ張る彼に付き従う。繁忙期やテスト期間中は大体こんな物だが、今日は特別、不機嫌かもしれない。何せ、今はそのどちらでも無い。ただの金曜日なのだ。
彼の部屋の前で一度腕が解放される。何故か焦る動きで鍵を探り、鍵穴に突っ込むアズールを見ながら、さり気無く腕を擦る。振り向いたアズールには笑顔を見せる。開け放たれた扉には引き摺り込まれる前に自ら足を踏み入れる。途端に背後で、風圧が掛かる程の勢いで荒々しく扉が閉められる。愈々以て不機嫌だ。剥がれそうになる笑顔を取り繕いつつ、投げ捨てられたコートを拾ってクローゼットに掛けて置く。立て続けに帽子とストールも投げ出されたので拾い、近くのハンガーに掛けていると、ジェイドのストールが乱暴に奪われる。急かされていると理解し、自らの帽子とコートをさっさと脱いで畳む。身軽になった所で再度腕を引かれ、即座にベッドに転がされる。ここまで激情に身を任せジェイドに当たるのは非常に珍しい。しかし動揺は隠し、従順に微笑んで見せた。
結局、その日はこれまでにない程に酷い夜だった。ジェイドはアズールが何かそれに値する程度には酷い出来事に襲われたのだろうと納得をしていた。
事も終わった、と痛む腰を堪えてベッドを降りようとすると、汚れたシーツに引き倒される。肩を痛むほど押さえつけられ、荒く唇を奪われる。まさしく奪うと称すに相応しいキスは息苦しい。薄目を開けて見えた目は、何らかの激情に潤んでいる。せめてもの慰めにと頭を撫でたら、余計に荒くなった。よもや酸欠で意識を失うかと覚悟を決めた辺りで、やっと解放される。急に飛び込んでくる酸素に咳をしている間に上から圧し掛かられて、動くのが難しくなってしまった。少し逡巡してから、くたりとした背中を軽く叩く。
「アズール、すみません。少しお話が」
「聞きたくない」
「少しでいいんです。貴方にとっては朗報かと」
「……朗報」
のそのそ顔を上げて、隈だらけの目を擦り起き上がった。渋る様にゆっくりと退いたのを見て、ベッドを這いずり出す。すぐに足首を掴まれた。
「逃げませんよ」
真摯な声色で告げたのだが、その手は離されなかった。仕方ないのでそこから腕を伸ばして、どうにか服を手繰る。スラックスのポケットを探って、目的の物を取り出した。
姿勢を正しアズールに向き直って、横になる彼の眼前に透明な液体を揺らして見せる。その目が怪訝に細まり、足首を掴む力が強くなった。
「何ですか、それ」
瓶を回して向きを変え、ラベルが彼に向く様にする。そのまま瓶をアズールと同じく横たえると、彼の青い瞳孔が文字を追い始めた。それから、はく、と口を動かし、息を止めた。ぎりぎりと掴まれた足首が折れかけている。ジェイドはにっこりと綺麗に笑う。
「いつも頑張っている貴方に、僕からの贈り物です」
跳ね起きたアズールに力一杯足を引き寄せられ、抗えず背中から倒れる。あまりに強く打ったせいで一瞬呼吸が止まった。流石に驚いてアズールの方を見ると、その美しい目から大粒の涙を零していた。覆いかぶさられたら顔中に涙の雨が降り注いで、うまく目が開けられなくなった。
「何だよ……何なんだよ! 僕が何をしたって言うんだ!? お前から僕の事が好きだと言ったんだぞ!」
「ええ、その節は申し訳ありませんでした。余計な事を言ったと後悔していたので、ずっと機を窺っていたのです」
「余計? 余計って……」
ぴしり。意識が飛び掛ける程の痛みと共に、そんな音が聞こえた。叫び声も涙も飲み込んで微笑んでいると、渇き切った笑い声が落ちてきた。
「こうして飽きる日が来ると知っていたからですか?」
折れた足首が手離され、今度はその手が肩に伸びた。全体重を掛けて押し潰される。ジェイドはただ、にこりと笑んでいる。
「いいえ。だって、貴方、僕といると辛そうにするじゃないですか」
「それはお前の方だろう!?」
みし、と肩が軋む。もうずっと流れ続けている涙を拭おうと思ったが、可動域が狭くされている腕はそこまで動かせなかった。
「……ジェイド。お前、もうこれを飲んだのか」
手の力が少し緩んだ。黙って頬まで腕をどうにか動かして涙を掬ったら、掠れた呻きが返される。その超音域はジェイドの鼓膜だけを揺らした。
「ええ。ちゃんと殺しておきました」
言葉を次ぐ間もなく、首が彼の両手に包まれた。
◆
はた、と気が付いた時には遅かった。瞑目したジェイドの唇から唾液が漏れている。全身の力は抜けきっていて、完全に意識を捨てさせてしまった事を知る。それでも、その胸から鳴り続ける優しい鼓動音に嗚咽が漏れた。唇を噛んで、どうにか大声で愚図る事だけは堪える。
一体何を間違えたのか分からない。ずっとジェイドはアズールだけを見ていたし、アズールもそうだった。今日、この日までは一度も傷付けた事は無かったし、怪我をさせるなんて以ての他で。酸欠気味の頭で赤く腫れた足首に目を遣る。億劫な腕を足元にやって、ペンを持つ。一振りしたら想定の倍以上の魔力が溢れてしまった。足首は完全に治ったようだから、溜まったブロットからは目を逸らす。
ベッドの上を転がる瓶に目を向ける。透明な液体がゆらゆらと凪いでいる。丁度、ラベルがアズールを向いた。
恋心を殺す。その文言を見た瞬間に脳味噌が上手く働かなくなってしまった。そもそも今日は最悪の日だった。飛行術がある日なのに生憎の日本晴れで、案の定浮かべず叱られるわ、尾を引いてか魔法薬学で初歩的なミスをするわと悪い事尽くめの中、とある手紙に感情を切り裂かれた。それは過去のアズールを想起させ、プライドを切り刻まれる出来事だった。そんな中でも無理に出向いた会議の終わりに、リドルからジェイドが妙な薬を服用していたと聞かされて、気分は落ちる所まで落ちていた。
確かに八つ当たりをしてしまったのは悪かった。ジェイドが何を飲んだのか、心のどこかで察しが付いてしまっていたせいで手酷く抱いてしまったのも良くなかった。最近は忙しくて何一つ恋人らしい行動どころか構っていなかったのも一因だろう。それでも、だからと言って、言葉で振る前に”無かった事にしよう”だなんて思われていたと分かったら、どうしようもない程に頭に血が上った。
意識の無い唇にキスをする。嗚咽がどんどん酷くなる。嘆きの声は、少しずつ超音波へ変わっていく。
嫌だ。捨てないで。
そんなのは許さない。
お前だけは、逃がさない。
一度肩口に噛み付いてから、アズールは瓶を拾う。呼吸を落ちつけながらジェイドを見下ろした。
「……ああ。確かに、これは贈り物だ」
は、と吐き捨てる様に笑う。瓶の蓋を指で弾き飛ばし、唇に当てる。
「これでやっと、”恋”が終えられる」
一気に傾けて、流し込むまま飲み干した。空になった瓶は床に投げ捨てる。一度心臓が強く脈打って、一度止まった涙をまた流すくらいの喪失感を味わった。苦しすぎてジェイドの体に縋る。
こんな苦しみを一人で味わってまで、逃れたかったのか。荒い呼吸を整えながら、心臓部に額を寄せる。落ち着いた鼓動が返ってくる。
「はは……」
重い身体を掻き抱くと、ぴくりと指先が動くのが見えた。全体重で胴を拘束して、額同士を当てる。そのまま動く瞼を見下ろした。
目を開けたら、この冷血な人魚は何と言うだろう。恋心は殺した筈なのに、それでも変わらない、この目を見て。
苛烈な感情を抑え切れない。その瞼が完全に開く前に唇に噛み付く。酸素を求めて開いた唇に舌をねじ込んだら、今度こそ目が開いた。
奪えるだけの酸素を奪う。感情の宿りにくいジェイドの目から涙が零れるのが見える。離してやると、また咳をした。
「おはようございます、ジェイド」
「アズール、魔法薬は」
「ええ、ちゃんと殺しておきましたよ。ちゃんとね」
頬を伝っていく涙にキスを落とす。海のような味がする。繕えないままに上機嫌な笑顔を晒すと、ジェイドは心底、不思議そうな顔をする。そして、困った様に笑った。
「何ででしょう。余計に苦しくなってしまったみたいですね」
アズールはそれに答えてやる気は無かった。人の心が無いお前には分からないだろう、と言ってやりたかった。恋を殺したらその次に何が生まれるかなんて知らないだろう、と思いきり馬鹿にしたかった。
「可哀想でしょう、僕? お前が余計な事をしたばっかりに」
「そのようですね。すみません、アズール。僕に出来る事があれば――」
顔を掴んで持ち上げる。急な行動に吃驚したか、ぽかんと口を開けてアズールを見上げた。その口にまた噛み付いて、微笑んでやった。
「そう、お前のせいです。だから、お前はもう一生”ここ”に居ろ」
ジェイドが微笑む。嬉しそうに、笑って頷いた。それはアズールの最悪の日の最後を飾る、たった一つの良い事だった。
普段の正常な脳なら、こんな物は飲まなかった。そもそも、ジェイドがこんな物を持ち出さなかっただろう。だから今日は、きっと恋を終わらせるに相応しい日だったのだ。
過去の愚かな自分を嘲笑う声が頭を反響している。それは永遠に自らを蝕む物だと分かっている。この声を殺すのに、これほど良い日は無い。
未だ力の抜けきったジェイドの体躯を抱き寄せ、耳を食む。彼からは見えない様にくすりと笑った。手紙の送り主を思い出す。何をどうすれば思い通りに動かせるかなんて、考えなくても分かる。単純な、バカな人魚の頭なんて。
ああ、今日はなんて良い日なんだろうか。清々しい心持になってきた。どこまでも冷血で残酷な男を、掛け値なしに愛おしく思えるくらいには。
――明日からはもっと、心からの愛を注いでやれるだろう。
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