嘘だとは言わせない

 

「好きです」
 机に向かいペンの先に墨を塗る傍らで、ジェイドに済んだ書類を手渡しながら、彼は思い出したかのようにそう宣った。出会ってこの方、言葉どころか態度においても真逆を装い続けてきた男の口から飛び出した言葉に対し、返答をすぐに用意出来ず黙り込んでしまう。アズールは静かなジェイドへは一瞥もくれないで、さも当然のように最初の文字を書き始める。
「お前のことですよ」
 暫し黙して意図を探していると、先手を取られた。しかし、その言いようの気軽さに、一時間前から前傾になりつつある背中から汲み取ろうとした意図がやや透けて見えた気がして、ジェイドも調子を取り返す。
「ありがとうございます。恐縮です」
「……、嘘じゃないですよ」
「ええ、もちろん。分かっていますとも。特にどんな所がお好きなんでしょうか?」
 心からの嘘臭い笑顔を見せれば、アズールは普段通りに表情を歪める。それから軽く溜息をつき、書類から目を離しジェイドへと向き直る。然してペンを模したあばら骨の隙間に指を引っ掛け、ホルダーへと戻した。改めて向き合ったアズールは、照明を受けて赤らんでいる。
「例えば昨日、僕は夜遅くまで書類整理を終わらせる事が出来ず窮していたんですが」
 彼の語り出しに、おやと思う。今朝、自らが話したものに酷似していたからだ。しかし特には口に出さず、一応笑顔も薄めながら傾聴の姿勢を取った。
 ――嘘であると知りながら聴く話とは、どうしてこうも面白いのだろうか。
 しかしジェイドがそんな事を思っているとは露程も知らないアズールは、真面目な顔で口を開いた。
「疲れ切って、情けなくも『もうやめたい』と口にしかけた丁度のタイミングでジェイドが紅茶を差し入れに訪ねてきたんです。しかも僕が仕入れたばかりの茶葉だった」
「なるほど、そこが――」
「そして、その翌朝、ジェイドが僕に好きだと言ったんです」
「……おや」
 引き継ごうとした言葉は取り上げられて、予想と外れた方向へ話は続く。
 アズールが疲労するタイミングや喜ぶであろうポイントは大体把握出来てきているので、当然と受け取っていたのに、次に告げられる好意の向きが全く分からない。もしくは自らの予想が端から外れていて、これから彼は嫌悪を伝えてくるのかもしれない。
 巡る思考と緊張感に腹の前で組んだ指が落ち着かず、さりげなく後ろへ隠した。
「全部嘘だ、なんて予防線まで張って。そんなに僕の事が好きなのかと思ったら」
 じっと目を見て話をしていたアズールの視線が逸れる。いつでも彼はプレッシャーを与える為に相手の目を見続け、決して逸らすなどという弱さをひけらかす様は見せない。それでも目が逸されたのは、その理由を理解したら、これまで気安い幼馴染相手へ抱いたことの無い感覚と共に心拍が速まった。
「だから……僕もお前の事は嫌いじゃないって言いたくなったんです」
「好き、ではなくて?」
 矢継ぎ早に言葉を次ぐ紅潮した耳を見下ろしながら、今し方の動揺を殺し、生じた隙を逃さずに迎撃する。アズールは目論見通り、憎らしげにジェイドを一瞬睨み、それから静かに呼吸を吐いて笑った。
「……ええ、まぁ。好きですよ。そういうところも含めてね」
 その笑顔と言葉の甘やかさに、反撃を喰らったのはジェイドの方だった。思わず一歩退いて、いつも通りを装った海色の目に映される。彼は作った笑顔も見せず、言葉に嘲笑が混じる事もなく、不調和を示すのはただ皺を寄せている眉間だけだった。
 アズールは穏やかそのものを装ったまま立ち上がり、それから時計を見た。はっとしてジェイドの目線も後を追う。
 ――それは、ギリギリの場所にいた長針が、歯車に耐えきれずに角度を零に戻す瞬間であった。同時に、く、と喉を鳴らす音が真正面から聴こえた。
「今日は何の日か、知っていますか?」
 嫌々ながら視線を戻せば、つい先程まで茹で上げられたタコみたいに顔を全部真っ赤にしていた男は、くつくつと意地悪く笑っていた。悠々と机に手を置いて、カレンダーを指し示すとわざとらしく口角を上げる。
 彼の言う今日とは、四月二日。『嘘をついて良い日』の翌日だ。そして――
「今日は『嘘をついてはいけない日』、ですよ。ジェイド」
「……そんな事も言っていましたね、ええ。確かに」
 ここにはいない異世界の住人を全力で逆恨みしながら、心底楽しげにジェイドの動揺を笑う幼馴染を半ば睨むように見つめる。機嫌の良い彼はその視線も軽くいなして、勝利を確信する歪んだ笑みを浮かべて口を開く。
「『好き』ですよ。お前のことが」
 最初の単語を強調したアズールは、嫌味たらしくそう言い切った。その言葉と相貌のアンバランスさが妙におかしくて、胸中に渦巻いていた怒りだとか羞恥だとか、そんな感情が全て昇華されていく。
「……ふ、ふふ」
 思わず溢れた笑い声に、アズールがやっと片眉を上げる。ジェイドを揶揄う為だけに、自らの首を絞めている幼馴染が、心底面白くて堪らなかった。
「ええ、僕も『好き』です。貴方のことが」
 負けじと甘く囁いたら、言うまでもなく再度真っ赤になったアズールが同様に目を泳がせ、次の言葉を探している。反撃の機会を窺う貪欲さを、満面の笑顔で以て待ち構えながら、妙に高鳴る心音の正体については気付かない振りを決め込んだ。
 しかし、そうしている内に苛烈さを纏ったアズールの目がジェイドを見る。乱暴にも胸倉を掴みながら、それはそれは優しい声音で、吐き捨てるように言った。

 

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