メーデーメーデー、さっさとくたばれ! - 4/4

 

 頭がじくじくと痛む。もしかして、割れているのではと伸ばした手は上手く動かせない。失血で感覚を失っているのだろうか。視界が暗くて、現状が分からない。瞼はおそらく開いているはずだった。
「……は、は」
 呼吸音が聞こえる。鼓動が耳元で鳴っている。間近に体温を感じる。
 もしやと思い身を捩れば、強く締め付けられていた感触が解ける。そして開けた視界を、小さくなった青い瞳孔が覗き込んでいた。
 血の気が引いた茨の頬を、一筋も二筋も汗が伝う。それは戦場に置いてきた記憶を思い起こさせる、憔悴の色をしていた。背中や、痛む頭部に触れている体温は、微かに震えている。
 徐々に意識が判然としてきて、傷口を圧迫される感覚に顔を歪める。茨の目が、はっと見開いた。
「……い、生きてる?」
「ええ、どうにか……」
「よかった……」
 壁にもたれかかっていた身を起こす。丁寧にも茨の膝の上へ安置されていた自分の体を下ろしてから、「もう大丈夫です」と肩を叩けば、背中まで巻きついていた腕も安堵した様子で離れていく。止血する手も離れたため、自分で後頭部に触れる。そこで、大した怪我ではない事に気づいた。見れば、茨は完全に脱力して、両手両足を投げ出し仰向けに倒れていた。
 やっと視界が広がり周囲を見渡す。そうして飛び込んできた光景に、思わず目を瞠った。
 黒服の男達は膝をつき、両手を上げている。彼らの視線の先には、武装した警察組織がいる。その制服には見覚えがあった。弓弦の近くに停まっている彼らの車両を視認し、確信した。姫宮の管理している、警備会社だ。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。呆然としながら、隣を見る。
「結局、あんたのご主人様が助けに来てくれたんですよ。裏で糸を引いていた貴族も猊下の手で捕えられた、とのことです」
「そうでしたか……ああ本当に、無茶をされて」
「あーあ、やっぱり放っとけばよかった。損ですよ、大損! しかもこっちが囮にされるなんて、最悪……」
 投げやりな声が広い空に飛んでいく。弓弦は黙って茨を見る。一瞬だけ目が合ったが、茨はごろりと横に転がり背中を向けた。それを横目に、弓弦はコンクリートの壁に背中を預け膝を抱えた。
 救急車が止まって、中から担架が運び出されてくる。
「助けてくれて、ありがとうございました。茨」
「別に……。恩を売っただけですよ。まあそれも出来ませんでしたけど!」
「いえ? 的確に手が回りすぎて気味が悪いくらいでございましたよ。今回ばかりは、きちんとお礼をしなくては」
 はあ、と盛大に溜息を吐き出しながら、茨は気怠そうに身を起こす。それから立ち上がって、座ったままの弓弦に手を差し出す。目を丸くする弓弦を見下ろしながら、茨は口を開いた。
「本当は弓弦が攫われたと聞いた時点で、ああ俺が助けにいかなきゃなと思いました。そうしないと今度こそあんたが死ぬかもって。実際、ほとんどそうだったし」
 茨の強張った声色が暫し途切れた。しんとした空気を救急車の音が切り裂く。
「だから、あんたが生きてて良かったって、本気で――とか言ったら、信じます?」
 弓弦は何度も瞬きをして、茨を見上げた。その顔は暗がりの中、パトランプの明かりで赤色に照らし出されている。弓弦は子供っぽくくすくす笑い、その手を掴んだ。
「信じますよ。ただ、あなたらしくもない、とは思いますね。むかつく事に」
「あっはっは、褒め言葉ですね。反吐が出ます」
 力一杯に引っ張られ、つられて立ち上がった弓弦の腕が茨の肩に乗せられる。さながら介抱される酔っ払いだ。何とも情けない格好になっていると気付き、離れようと身を捩る。しかし、茨が馬鹿にして笑う方が早かった。仕返しにと弓弦が全体重を肩へ預ければ、茨は「重っ」と叫んでふらついた。
 救急隊員の一人が、不安定に立つ二人の傍へ近づいてくる。差し伸べられた腕に自由な手を乗せ、支えにする。そのまま今度こそ放そうとした腕が、強く掴まれた。嫌がらせかと怪訝に茨を見れば、俯いた横顔だけが見える。弓弦は手を貸してくれている隊員に「自分たちで乗ります」と断り、再度茨に体重を預けた。
 茨の手がするりとずり落ち、手首を握った。白くなる指先が、脈に食い込んでいく。
「……生きていますよ、俺は。あなたのおかげでね」
「分かってるよ」
「そうですか」
 押しつぶされる手首の脈が、どくどくと波打っている。空いた手を茨の頬に滑らせる。手の甲は少し濡れた。

 不意に、キラキラとした音楽と可愛らしい歌声が辺りに響く。姫宮桃李のソロ楽曲だ。弓弦は飛びつく勢いで、すぐさまポケットからスマホを取り出した。
「坊ちゃま!」
 すぐ近くにいる茨にも、通話口越しに桃李の声が聞こえた。飼い主が帰ってきた犬が飛び上がって喜んでいる。茨は弓弦を眺めながら、そんな動画を想起する。
 ふと、茨のスマホからも音楽が流れる。体重が乗って動かしがたい肩をのろのろと上げ、暗い画面をタップすれば、Edenのグループチャットが更新されていた。
「……ええ?」
 そこにあったのは、満面の笑みを浮かべる取引先の社長と、その横でピースサインを作る日和達の写真だった。
 脳の処理が追い付かずに顔を上げたら、通話を終えたらしい弓弦と今度こそ目が合う。見合わせた顔はお互いにボロボロで、懐かしくて可笑しかった。そこで唐突に意識が途切れて、ぐるりと回った視界の端には、美しい夜空が広がっていた。

 

 ◇◇

 

 人工物と自然の入り混じった景色がゆったりと流れていく。弓弦は穏やかな風を頬に受けながら、深呼吸する。新調されたばかりだというヘッドレストは、以前のものより随分と柔らかい。
「エアコン付いてるんで閉めてくれません?」
「自然の風も気持ちいいものですよ」
 弓弦は頭を動かして、窓とは逆方向に目を遣る。ハンドルを握る茨は、電気代が、とぶつくさ言いながら眼鏡を持ち上げた。あの騒動でテンプルが折れ曲がったらしく、この眼鏡も新調したらしい。デザインは以前のものと瓜二つなので、誰も気付かないだろうけれど。
 そんな風に思いながら弓弦が見ていると、ちらと横目で胡乱な視線が寄越される。
「頭の包帯、まだ取らない方が良かったのでは?」
「傷は完全に塞がりましたので。すっきりしました」
「おかしいのは中身じゃないですか。坊ちゃまはどうしたんです、坊ちゃまとやらは」
 茨が訊ねると、弓弦はずるりと姿勢を崩した。そのまま静かに、頭を窓際に倒す。茨の方からは治ったばかりの後頭部が見えて、確かに塞がっているな、と思う。あの時、気を失った重い体を、死ぬんじゃないかと必死で抱き抱えたのが嘘みたいだ。
 弓弦は深く、深く息を吐き出して、それから右手を窓にくっつけた。
「あれから暫く心配で、どこへ行くにもお供をして差し上げていたら……もう鬱陶しい、明日から休暇! と言われてしまって……はぁ……」
「あっはっはっは! それは傑作ですね!」
「今が走行中でなければぶっ飛ばしておりますよ、この世から」
 じろ、と力ない体勢のままで睨みを飛ばされ、茨は余計に笑えてきた。隣り合った病室で駆け付けた仲間に囲まれ、彼には泣きながら無事を祝われた事を知っている。まったくもう、とぼやきながら弓弦は姿勢を正す。
「で、自分はそのストレス発散に付き合わされると?」
「そういう事でございますね」
「とんだとばっちりですよ、せっかくほぼ無償で助けてやったのに」
「こうして元気に生きているわたくしが一番の報酬なのでは?」
 機嫌良く笑っていた茨が口を曲げる。揶揄うような言葉に、次は茨が睨みを利かせる番だった。しかし弓弦は悪びれもせず、違いましたか、と笑う。否定や肯定の句を述べる代わりに、聞こえるような舌打ちをした。弓弦はそれを無視して「それに」と続ける。
「あなただって嫌いじゃないでしょう。こういった遊びは」
「それはもう」
 茨が穏やかに、アクセルを浅く踏み込む。高速道路の下には、煌めく海が朝日を反射していた。
「今日こそあんたを大敗させてやりますよ」
「ふふ。あのカーチェイスを見る限りでは、わたくし、負ける気がいたしません」
「はっ、余裕ぶっていられるのも今の内ですよ」
 カーナビが高速道路を下るように指示する。海辺にある広いコースが見えてきた。ES所有の練習場だ。しかし互いの脳内では、ハンドルを切って、アクセルを踏み切って、車体を転がすビジョンが、鮮明に浮かんでいた。
 弓弦は助手席の窓を指の背でノックする。トントントン、トントン、ツートン、トン。茨は一瞬黙って、それからすぐ声を上げて笑った。
「くたばれ」
「あなたがね」
 潮を含んだぬるい風が、静かに休日の青空を吹き抜けていく。

 

4件のコメント

LU

原作の高校生離れしている設定が大好きなので、カーチェイスしたりバトルしたり謀略したりするシチュエーションが大好きです。映画を見ているみたいにかっこいい場面が次々想起されて、ドキドキしながら拝読しました!慇懃無礼なところ、二人の車内、弓弦の怪我を見て弱さを見せるところ、色々な表情の茨が見れて嬉しいです。二人以外の登場人物たちの描写もすごくよかったです。素敵なお話をありがとうございました!

返信
七篠空白

自分もほぼ大人のように描かれている姿が好きで、またアクション映画っぽさを意識して頑張ったので報われた気持ちです……ありがとうございます!

返信
HANA

ふたりが協力してこういうことをするというのが大好きなので読めて幸せでした!ありがとうございます!

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