メーデーメーデー、さっさとくたばれ! - 1/4

 

 ――ザザッ。
 軽い衝撃。鈍痛。ゴトリと何かが落ちる音。そして近く聞こえるノイズ音。
 唐突に、弓弦は目を覚ました。開けた目が捉える映像の暗さに、一瞬、思考が停止する。
 何があった? ここはどこだ? 混迷を極める自問自答の最中で、起き上がろうと動いた途端にじくりと痛んだ後頭部に、段々と意識が醒めてくる。
 動こうとして気が付いたのは、両手両足がそれぞれに縛られていることだった。暗さに目を凝らせば、雑な結び方が為されている。力尽くで暴れれば、どうにかなりそうだった。しかし、不意に空間がぐらりと揺れた。反動に曲げた膝が壁にすぐぶち当たり、空間のサイズを理解した弓弦はその判断を取り止める。
 じっとしていると、耳元から聞こえてくるノイズが徐々に明瞭になっていく。縛られたままの手で触って、それがイヤホンだと分かった。こんなもの、いつの間に。そんな疑問符を浮かべながらも、ただ耳を傾けた。それは、未だ緩やかに動き続ける狭い揺籠に似た空間で、唯一の外部との接続だった。
「…………あー……あー。よし、繋がった。聞こえますか?」
 ノイズが止まり、遠くも延々と聞こえていた声がクリアに伝わってきて、その正体を知る。弓弦はゆっくりと目を見開いて、それから口を開こうとした。しかし、言葉が喉まで転がってきたところで飲み下す。
「返事はしなくていいですよ、というか声は出さないように。意識は戻ったようですね? 呼吸音で判断しましたが」
 普段の通話と変わらない音声が、イヤホンの向こうから話し掛けてくる。真面目くさった声音だけが、この状況の奇妙さを表している。
 それは茨の声だった。複雑な昔馴染みの存在に安心する日が来るとは、思ってもみなかった。弓弦は慎重に腕を動かし、イヤホンのマイク部を指先で二度触る。
「はいはい、しっかり起きていますね。分かりました。では軽く状況説明を……と言いたいところですが、緊急事態なもので。ジャケットの内ポケットにスマホがありますね? 今そちらをハッキングしていますので、カメラを窓の外に向けてもらえますか?」
 矢継ぎ早に告げられる、それが彼の、及び自らの切羽詰まった現在を雄弁に伝えていた。既に自らの置かれた状態へ適応し始めていた弓弦は、さっと辺りを確認する。
 弓弦の前には壁があるが、その上半分には大きく横長の窓が据えられている。弓弦の身長程もない空間は、その場を転がるのがやっとだ。身を捩って後ろを見れば、背後の壁の下にうっすらとレールのようなものが見える。そこで一つの可能性が思い浮かび見上げれば、壁と思っていたそこにヘッドレストが付属していた。そして、この空間が車内のトランクであることを理解した。
 続いて床に目を走らせる。灰色のカーペットの上に、見慣れた端末が落ちている。目を覚ます直前に聞いたのはスマホの落下音だったらしい。慎重に手を伸ばせば、どうにか指先が届く。僅かに掴んだ場所をずるずると引っ張って引き寄せ、手の中に収めた。顔の前まで持ち上げた暗い画面に映るのは、テレビ電話のUIだった。
 車という事は、少なくとも運転席には何者かが居る。音を殺しながら、左腕の力だけで身体を仰向けにする。静かな車内だが、小さくラジオが流れていた。その音声に合わせて腕を動かし、窓の下側にカメラをかざす。
「……あー、はいはい、なるほど。大体分かりました。下げて」
 何だ、その命令口調。そんな反抗心は胸にしまい、素直に端末を手元へ収めた。
「現在地自体は姫宮氏のGPSから特定していたんですが、余りにも遠いので壊れたのではと思っていたんですよね。まぁ、非常に残念なことにそれは間違っていたわけですが」
 小さい舌打ちが聞こえる。通話越しにかたかたとキーボードを叩く音がしている。その音が荒くなる。相変わらず、感情を隠すのが下手だ。
「落ち着いて聞いてください……なんて釈迦に説法だとは思いますけど――」
 茨は咳払いを一つした。
「今、弓弦が乗せられている車両は、県外の港へ向かっています。既に県境を突破し、現在は隣県にいるようです」
 港。隣県。落ち着いた脳でも、その言葉を消化できない。止まない痛みで処理能力が低下している。どういう状況だ、と改めて呆然とした。運転席付近から聞こえるラジオは、たまにノイズを放っている。電波状況は悪いらしい、そんなことしか判然としていない。
 茨は混乱を察したのか、「大丈夫ですよ」と珍しく殊勝な事を言う。
「自分が、あんたを助けます。だから、安心して下さい」
 本当に珍しい物言いが、逆に焦燥感を煽ってくる。それに何より、むず痒くて堪らない。
 何を生意気な、あなたに貸しを作るだなんて御免です。そう言ってやりたいのに、何も答えられないのがもどかしい。そこまで考えたところで、ふと昔、共に習っていたモールス符号を思い出した。
「いいですか、教官殿。今から、自分が、作戦を伝えます。タイミングも指示します。なので、唯々諾々と従って下さい。……もちろん、あんたが死にたいというなら全っ然止めはしませんが!」
 いつも通りを装った笑い声が聴こえてきて、思わず舌打ちが出た。幸い、車内では有名なラジオパーソナリティの大声が響いており、誰もこちらを気にしていない。
 茨の癖に、慰めようなんて生意気だ。気を遣われるなんて最悪だ。そんな思いを込めて、イヤホンを叩いた。
 ――トントントン、トントン、ツートン、トン。
「あ? ……はいはい! イエスと聞こえましたよー、では説明を始めますね!」
 嘘つけ、これだけは面白がってすぐ覚えていただろうに。あからさまに安堵した様子の声音になったのも、居た堪れないような、溜息をつきたい気分にさせられた。

 作戦はこうだ。弓弦が乗せられている車は、さらに隣県との県境近くに位置するパーキングエリアで、グループの別の車と合流する。これは無線の傍受で得た情報らしいので確かである。その隙を狙って、近くで待たせている茨の部下と合流し、ESビルまで護送される。
 それから、自分の命を優先して、とにかく帰ってくること。そうしなければ桃李がそっちに行こうとしている、ということを念押しされる。幼い子供に言い聞かせるかのような言い方に、弓弦は口を歪めた。
「とにかく余計な事はしないで下さい、全てこっちでやりますから。いいですね? 良ければ合図を」
 ハイ分かりました。どうぞよろしくお願いいたします。弓弦はそんな気持ちを、一度の舌打ちに託した。運転席からは小さく鼻歌が聴こえていた。
「はいはい、ありがとうございます!さっさと死んで下さーい!」

 ◆

 真夏の某日、Edenは多忙を極めていた。『Sunlit Smile!』を筆頭に、夏をイメージしたEveの楽曲によるライブ依頼の数々、付随するCMのオファー、新しい事業の取引、諸々。
 多忙に目を回し高笑いしながら、茨は廊下を走っていた。この波に乗って、長きに渡り準備をしてきた事業が流れてきた。遂に駒を進められる段階までやってきたのだ。
 取引先の営業と舌戦を繰り広げている、そんな最中、茨は正面から同じく走ってくる小さな人影をとらえた。
 寸でのところで足を止め、さっと道を譲る。しかし、相手も目前で足を止めた。それは姫宮桃李だった。
「は、はぁっ、み、見つけた! 七種、センパイ……!」
「え?」
 そのまま通り過ぎると思っていたが、彼はまっすぐに茨を見ていた。面食らいながらも、電話先に挨拶を交わし、通話を終える。桃李はそれをお行儀よく待ちながら、柔らかい手の甲で額の汗をぬぐった。
 この時点で、すでに嫌な予感はしていた。この男が自分に絡む理由など、ただ一点の共通項だけなのだ。理性的にも本能的にも、それを察知していた。その上、息を切らせる桃李の後ろにはボディーガードが数名付いていて、本人も疲れだけではない、何らかの精神的事情で真っ青になっている。面倒事の予感がした。
「……自分に何か用事でしょうか? すみませんが、今結構忙しくて! 出来れば手短にお願いします!」
「うん、分かってるよ。じゃあ用件だけ聞いて。……弓弦が、連れ去られたの。だから助けてほしい」
「は?」
 握っていたスマホがずり落ちる。理解できずに、一瞬だけ体の機能が低下したようだった。すぐに正気を取り戻したが、心の中は二分している。いやいや、なんの冗談ですか? もしくは、本気なら、何を悠長にしているのか。
 顔を顰める茨から否定的な感情を汲み取ったらしい桃李は、「分かった」と頷いた。覚悟を決めたような強い瞳だ。
「七種先輩は何が欲しいの?」
「はい?」
「土地?お金?何でもいいよ、うちで出せるものなら何だって差し出す。もちろん契約書は書かせて貰うけどね、さすがに全部をあげたら弓弦に怒られちゃうだろうから。それでも駄目?」
 途端に、浮かべていた返答のどちらも誤りだった事を悟った。冗談でもなんでもなく、その上で最終手段として自分に話が回ってきたのだと理解した。一度分かれば、何となく事情が繋がってくる。
 自分の身を守れなかった弓弦は、お家から見捨てられたのだろう。それを、このご主人様は諦めなかった。そうして奔走した結果が今、無防備に茨へ差し出された手というわけだ。
「…………だめ、なの?」
 大きな瞳が潤んでいる。気丈に努めていても、本質的に素直な彼は心根を隠しきれない。恐らくそれが決定打だった。
「詳しく聞かせて頂いても?」

 意外にも冷静に話を始めた桃李が言うには、やはりと言うべきか、弓弦は彼を守ってやられたようだった。偶然、二人だけで出社していた今朝の話だ。見知らぬ武装集団に囲まれて、それから弓弦は連れ去られた。応戦の末だったというのだから、相手は相当の手練れだろう。
「多分、最初から弓弦を狙っていたんだと思う。相手の要求は、ボク自身だったから」
 そう語った桃李は悔しそうに震えていた。
 普通は弱い彼を狙うべきだろうに、と思うが、弓弦の場合は違う。大切な主人のためなら死に物狂いで救おうとするだろうが、自分の事はいざとなれば捨ててしまう。だからつまり、それをも理解した相手の犯行という可能性がある。恨みを買っている姫宮のことだ、ただのチンピラではないのだろうとは分かっていたが、相当に厄介な相手なのだ。
 偶然にも、実に幸運な事にも、そこへ茨の送り込んだスパイがいたのだから、余計に口惜しい。もう少しだけでも早く、処理を済ませていれば良かったものを。懐にスマホを隠し、イヤホンを装着させるだけで精一杯だった。
 茨はイライラしながら、モニターに映るマップを睨む。そこを走り続ける赤いポインターを目で追い、座標を記録しながら、鳴り響くスマホを手に取った。
「……はい、はい、大変申し訳ございませんがその話はまた後日にしていただけますと! ええ、はい、では失礼します」
 何件目かの断りを入れながら、ふうと短く息を吐き捨てた。それどころじゃないと切り捨てたいくらいだった。ああそういえば、レッスンもキャンセルしておかなければ。片手間にグループチャットを起動した。
 ――あの弓弦が、捕らえられた。理性で押さえつけていた苛立ちは沸々と胸の底で湧いてきている。かつての彼は、たかが武装集団程度のものに敗北する負け犬ではなかったのに。守るものが出来れば強くなるなど、最初に思った通り馬鹿馬鹿しい与太話だったのだ。自分ごときに助けられる立場にまで貶められるなんて、情けない。勿体ない。
 トン、トン。勝手に足が地面を叩く。近寄ってきた部下から資料をぶんどって、手で追い返す。薄い紙束を指でつまんで、さっと目を通す。件の犯罪グループに関する情報が細かく並んでいた。
「……やっぱり」
 姫宮が経営上で踏み潰した政敵。それが今回の黒幕と見られているようだった。茨はスマホの通知を切って、最小化していたウィンドウを開く。
 小さな画面に映る映像は相変わらず真っ暗で、よく見えない。時折聞こえる短い呼吸音だけが情報だった。明度を上げれば、確かに車のトランク部の形をしている。
 こんなベタな手口を現実で見る羽目になるとは、と自嘲しながら、マイクをオンにする。僅かながら映り込んだ赤色の染みに、嫌な汗が伝うのを感じていた。

 

4件のコメント

LU

原作の高校生離れしている設定が大好きなので、カーチェイスしたりバトルしたり謀略したりするシチュエーションが大好きです。映画を見ているみたいにかっこいい場面が次々想起されて、ドキドキしながら拝読しました!慇懃無礼なところ、二人の車内、弓弦の怪我を見て弱さを見せるところ、色々な表情の茨が見れて嬉しいです。二人以外の登場人物たちの描写もすごくよかったです。素敵なお話をありがとうございました!

返信
七篠空白

自分もほぼ大人のように描かれている姿が好きで、またアクション映画っぽさを意識して頑張ったので報われた気持ちです……ありがとうございます!

返信
HANA

ふたりが協力してこういうことをするというのが大好きなので読めて幸せでした!ありがとうございます!

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